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マジックビーン情報
1.マジックビーンって知ってる
2.キングスのコーヒー豆の美味しさの秘密
3.コーヒーにも日本の四季があっていい。
4.スリランカには美味しいコーヒーもあった。
5.コナコーヒーとコーヒー農園の話
6.ブラジルコーヒーの話(1)ブラジルとコーヒー
7.ブラジルコーヒーの話(2)ブラジルコーヒーの歴史(年表)
8.ブラジルコーヒーの話(3)ブラジル・セラード訪問記 その1〜6
9.ブラジルコーヒーの話(4)トルマリン農場の紹介その1&2
10.ブラジルコーヒーの話(5)ブラジル移民の歴史(年表)
11.コーヒーの世界史(年表)
   コーヒーの世界史についてご意見、ご提案のある方はご連絡いただければ幸いです。

11. (2008.8.28.) 
コーヒーの世界史(年表)

6世紀(一説には15世紀後半)、アラビア半島のイエメンで最初の珈琲栽培を始める。

10世紀初め、バグダッドの医師「ラーゼス」による歴史上最初の公式飲用記録。
コーヒーの乾燥した種子を「バン」、その煮出し汁を「バンカム」。

13世紀初め、珈琲の発見伝説その1:アラビア説(アラビア半島イエメン)      /回教僧シェーク・オマールの逸話(イスラム教説)

1415世紀、珈琲の発見伝説その2:エチオピア説(アビシニア高原)
          /山羊飼いのカルディの逸話(キリスト教説)

1415世紀中頃、回教徒(イスラム)の秘薬時代

1454年頃、焙煎の手法発見(イエメン・アデンの寺院)

15世紀後半、アラビア半島へ伝播。

イスラムの聖都 メッカ、メディナへ伝播。

  ペルシャへ伝播

エジプト カイロへ伝播。

マムルーク朝支配のエジプト、シリアへ伝播。

16世紀、オスマントルコによりイスラム各地へ伝播。

1299年 イスラム国家として建設される

1453年 東ローマ帝国を倒し、三大陸に領土を拡大。

15-16世紀 マムルーク朝を倒し、エジプト、シリアを支配。

16世紀 アラビアを支配。トルココーヒー、イスラム各地へ伝播。

1510年 エジプト・カイロへ

1517年 イスタンブールへ
        サルタンコーヒーとトルココーヒー

17世紀以降、世界各地へ伝播。

1)ヨーロッパへ伝播

1592年、ベネチア人プロスペロ・アルピーニは「エジプトの植物」を記す       植物のコーヒーと飲料のコーヒーについて説明。

     ココアはスペイン人が伝播(1528年)

     お茶はオランダ人が伝播(1610年)

1616年、イエメンからオランダへ伝播(オランダの貿易商)

1644年、フランスへ伝播(P・ド・ラ・ローク)

2)アジアへ伝播

17世紀初期、イスラム教徒の巡礼者「ババブーダン」がイエメン・メッカから南インドのマイソール州に伝える

1658年、オランダからセイロン(現在のスリランカ)へ伝播
         オランダ人が栽培を始める

1699年、オランダからジャワへ伝播。
        東インド諸島のスマトラ、チモール、スラウェシ、バリへ

4)アメリカへ伝播

1607年、バージニアへ伝播(ジョン・スミス)

1689年、ボストンへ伝播。

1773年、ボストンティーパーティー事件。

5)中南米へ伝播

1714年、オランダ・アムステルダム市長からフランス・ルイ14世へ。

   同年、フランス領西インド諸島マルチニーク島へ移植。(1719年1720年,1723年説も)

   仏海軍将校「ガブリエル・マチュード・クリュー」(マルチニーク島駐屯歩兵隊の大尉)

1715年、仏領マルチニーク島からハイチ、ドミニカへ伝播

1715年〜1717年フランス東インド会社により、ブルボン島(現レユニオン)に伝播。
   
  レユニオンはインド洋のマダガスカル島とモーリシャスの間にある島。ブルボン種の原産地になる。

1718年スリナムへ伝播(オランダ人)。

1727年、ブラジルへ伝播。フランス領ギアナからブラジルのパラ県へ移植。

 「フランシス・デ・メロ・パリエタ大佐」(パラマラニョン県の警備隊長)

1730年、ジャマイカへ伝播(イギリス人)。

1740年、フィリピンへ伝播(スペイン人)。

1748年、ドミニカからキューバへ伝播。

1750年〜1760年、グァテマラへ伝播。

1779年キューバからコスタリカへ伝播。

1790年西インド諸島からメキシコへ伝播。

6)日本へ伝播 4つの説(1718世紀)

19世紀以降 コーヒーが飛躍的進歩

1802年 ドノーブ、アンリオン、ローシュがコーヒー湧かし器の最初の特許を考案

1877年 焙煎機の開発。

1899年 インスタントコーヒーの発明(日本人)。

1901年 ペーパー・ドリップ・システムの考案。

1908年 エスプレッソ・マシーンの考案

参考文献:
 
 1.オールアバウトコーヒー ウィリアム・H・ユーカーズ著 UCC上島珈琲(株)監訳

 2.コーヒーの事典 日本コーヒー文化学会編 柴田書店


10.ブラジルコーヒーの話(5) (2007.12.1.)
ブラジル移民の歴史

1904年(明治37年)、日露戦争。(〜1905年)
戦利品として笠戸丸(前身はロシア・バルチック艦隊所属の「アリヨール号」?)を獲得。1904年(明治37年)、水野 龍、皇国殖民株式会社を設立し、社長となる。
明治38年(1905年)、ブラジル公使杉村ふかし、「南米ブラジルサンパウロ州移民状況視 察報告」をまとめる。
1905年(明治38年)12月〜1906年(明治39年)8月、水野 龍、ペルー、チリで日本移民 の状況を調査後、ブラジル・サンパウロで州知事、農務長官を訪問し、集団移住案につ いて話しあう。
1906年(明治39年)8~12月、笠戸丸の中南米第一次航海(ハワイ移民)
1906年(明治39年)12月、水野 龍、南米移民の計画のためグレンファーグ号で渡伯。1907年(明治40年)1~5月、笠戸丸の中南米第二次航海(ペルー移民)
1907年(明治40年)4月、 水野 龍、ブラジルのリオ州およびサンパウロ州に移民を送  る契約を行なう。
1907年(明治40年)5~9月、笠戸丸の中南米第三次航海(ペルー・チリ移民)
1907年(明治40年)10月〜明治41年(1908年)4月、笠戸丸の中南米第四次航海(メキ シコ移民)
1908年(明治41年)4月、 最初のブラジル移民
 笠戸丸にて日本を出航。6月にサント ス港に到着。(水野 龍が最初のブラジル移民  団長)
1909年(明治42年)春、 ブラジル国サンパウロ州政府庁専属ブラジル珈琲発売所「カフ ェパウリスタ」が創立、開店。
1910年(明治43年)、水野 龍がブラジル国サンパウロ州政府よりサントスコーヒー豆の継続的供与と東洋における一手宣伝販売権を受ける。
1913年(大正2年)、水野 龍、株式会社カフェーパウリスタ設立。)、水野 龍、株式会社カフェーパウリスタ設立。
 ブラジル産珈琲と南米物産の輸入販売が目的。(ブラジル宣伝活動第一回)
1914年(大正3年)、第一次世界大戦。(〜1918)
1918年(大正7年)、ブラジル大霜害
1923年(大正12年)、関東大震災。
1927年(昭和2年)〜昭和9年(1934年) ブラジル豆余り時代。1927年から1934年にか けて4回の大豊作。
1928年(昭和3年)、衛藤六蔵渡伯。
1929年(昭和4年)6月、衛藤六蔵、ブラジル国立サントス珈琲取引所珈琲鑑定室に研  究生として入所。
1929年(昭和4年)、世界大恐慌。
1929年(昭和4年)、大阪の星隆造(ニッポン・ブラジリアン・トレーディング・カンパニ ー)がブラジル政府と一手販売契約を結ぶ。(ブラジル宣伝活動第二回)
1930年(昭和5年)頃、 マルコス・ミヤキ家(祖父母)、ブラジルに移住。
1931年(昭和6年)6月、 衛藤六蔵、ブラジル国公認珈琲格付鑑定員の資格を授与され る。
1931年(昭和6年)、満州事変。
1932年(昭和7年)、三井物産(株)がブラジル政府と一手販売契約を結ぶ。(ブラジ ル宣伝活動第三回)。
1932年(昭和7年)8月、ブラジルコーヒー宣伝販売本部が開設。
 ブラジルコーヒーの一手販売と宣伝活動を開始する。(ブラジル宣伝活動第四回/A.A.ア ッスムソン)
1933年(昭和8年)11月、衛藤六蔵、ブラジルより帰国。
1934年年(昭和9)4月、衛藤六蔵、ブラジルコーヒー宣伝販売本部技術部門に勤務。
1937年(昭和12年)7月7日、日支事変(中日戦争)起こる。(〜)
1938年(昭和13年)1月、ブラジルコーヒー宣伝販売本部閉鎖。
1939年(昭和14年)、第二次世界大戦始まる。(〜1945)
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争始まる。(〜1945)
昭和17年(1942年)、カフェパウリスタ、社名を日東珈琲株式会社に改称する。(当局に  指示による)
1945年(昭和20年)12月8日、太平洋戦争終わる。
1958年(昭和33年)10月、島野俊弥(26歳)、移民船「ブラジル丸」でブラジルへ。
1975年(昭和50年)、マルコス・ミヤキ家(父・ヨシオ・ミヤキ)、ブラジル・パラナ州で大 霜害に遭遇。
1978年(昭和53年)、マルコス・ミヤキ家(ミヤキ6歳)、ブラジル・セラードに移住し、現在に至る。
1986年(昭和61年)、現在の地・トルマリーナ郡でコーヒー栽培を始め、現在に至る。

以上。                                平成19年11月1日 衛藤正徳

参考文献
1.日本コーヒー史 全日本コーヒー商工組合連合会
2.宇佐美 昇三著 「笠戸丸から見た日本」海文堂
3.銀座パウリスタの横顔 カフェーパウリスタ日東珈琲(株)
4.パウリスタ物語1〜5 カフェーパウリスタ日東珈琲(株)
5.衛藤六蔵履歴書
6.セラード珈琲(株)パンフレット
7.標準百科事典 (株)保育社 1968年(昭和43年)11月10日発行

エピソード
日露戦争における広瀬武夫

























衛藤六蔵 in Brazil
1928年(昭和3年)、衛藤六蔵渡伯。
1929年(昭和4年)、衛藤六蔵サントス公認珈琲取引所鑑定室に入所。
1931年(昭和6年)、衛藤六蔵ブラジル政府公認珈琲鑑定格付員の資格取得。
1933年(昭和8年)11月、衛藤六蔵、ブラジルより帰国。

マルコス・ミヤキ家
1930年(昭和5年)頃、 マルコス・ミヤキ家(祖父母)、ブラジルに移住。
1975年(昭和50年)、マルコス・ミヤキ家(父・ヨシオ・ミヤキ)、ブラジル・パラナ州で大 霜害に遭遇。
1978年(昭和53年)、マルコス・ミヤキ家(ミヤキ6歳)、ブラジル・セラードに移住し、現在に至る

島野俊弥
1958年(昭和33年)10月、26歳のとき移民船「ブラジル丸」でブラジルへ移住。
 最初、動物医薬品関係の仕事に就く。
 1986年(昭和61年)現在の地でコーヒー栽培を始める。そして現在に至る。

9.ブラジルコーヒーの話(4) (2007.5.2.) 
トルマリン農場の紹介 
トルマリン農場の島野俊弥(Toshiya Shimano)さんが3月2日にキングスコーヒーを尋ねてこられました。そして島野さんといろいろなお話をしました。島野さんは経験と科学の知識と技術の両面から美味しいコーヒーの栽培を実現しようとあらゆる努力をされているのがよく分かりました。一度現地の農場を訪問しようと思っています。ここでは島野さんとトルマリン農場とそこで栽培されているムンドノーボ種のコーヒー豆について紹介を致します。(2007.5.2)

トルマリン農場の紹介その1(簡単な紹介)
 トルマリン農場はブラジル・ミナスジェライス州北東部の標高1000mの高原地帯にあります。農場主はToshiya Shimano氏(写真参照)です。Toshiya Shimano氏はコーヒー栽培について哲学を持ち、品質重視の姿勢を貫き、毎年スペシャルティー・コーヒーのレべルを維持していることは、特筆に値します。農場主の人柄がしのばれます。
 今年も素晴らしいコーヒーを我々に届けてくれました。トルマリン農場で栽培されているムンドノーボ種のコーヒー豆です。有機肥料を用いて低農薬で栽培されています。1998年には全米スペシャルティー・コーヒー協会の品評会で第1位に輝いています。当店ではトルマリン・ムンドノーボをシティ・ロースト〜フルシティー・ローストで焼き上げてお届けいたします。香り高く、舌触りの良い苦味に、甘みとしっかりとしたボディをもち、すっきりとした後味のコーヒーです。(2007.5.2)


ブラジル・トルマリン農場主の
Tosiya Shimano氏(左側)と
店主
キングスコーヒーにて
2007.3.2.撮影
トルマリン農場の紹介その2(農場の詳細)
トルマリン農場の紹介

 トルマリン農場主の島野俊弥さんのコーヒー作りをトルマリンコーヒーの冊子を参考に紹介いたします。冊子の内容の基本部分はそのままですが、細かい説明は多少取捨選択しました。

その1・トルマリン農場の概要

1.トルマリン農場はどこにある?
   トルマリン農場はブラジル・ミナスジェライス州北東部トルマリーナ郡にある。セラード地帯を形成している標高1000  mの丘陵高原地帯です。サンパウロからモンテス・クラーロス空港まで空路で2時間、そこから自動車で約2時間半の  ところに位置しています。農場の写真を見ると「大平原にある農園」という感じです。

2.農場の広さは?
   農場の総面積は4000ha(東京ドーム約855個分)。
   そのうち栽培エリアは1000ha。
   自然森林として約500ha(水源を取り囲む部分のみの広さ)を設けている。

3.気候はサバンナ気候。
   雨季(11〜4月)と乾季(5〜10月)が明確に分かれている。また昼夜の温度差が激しい。
   年間降水量は800〜1200mm程度。
   平均気温は22度C。
   平均湿度は14時で50%位。なお、午前中は朝霧が立ち込めるため85〜90%になる。

その2.島野俊弥さんのコーヒー作り
     島野さんのコーヒー栽培の基本は品質重視のコーヒー作りで、最高のコーヒーを作り出すことです。その理念に     もとづいて栽培方法を考案し、そして実践しています。コーヒー作りの重要ポイントは下記のようにいろいろな栽      培の核心部分は一斉開花と一斉完熟にあると私は考えています。

1.コーヒー作り一年のサイクル
  9月に花芽をつける。
  灌漑を開始すると、12〜15日後に一斉開花。
  雨季(11月〜4月)の降雨で翌年の1月までに完全に結実。
  2月の30〜45日間(短い夏)で成長し、3〜4月の雨で熟成する。
  6〜7月頃に完熟した豆を収穫する。
  6〜8月で精選処理し、木製サイロで保管。
  出荷前に精製・選別し、10月に新豆として出荷。

2.散水方式は?
   雨の降る時期と適度の雨量をコントロールすることが重要という考えから、散水方式に点滴チューブによる大規模灌  漑方式を採用している。

3.土作りと肥料は?
   島野さんは「トルマリンコーヒーを生み出すため試行錯誤を繰り返した大部分は、この土作りに費やしたといっても過  言ではありません。」書いているように、コーヒー栽培の土台となる土作りに時間とエネルギーを費やしている。

 具体的には、開墾当初は1haあたり20トンの石灰を投入し、その後も毎年1haあたり3トンの石灰を投入して、土壌   改 良をおこなっている。また、地力を高めるために、毎年、有機肥料として青刈り大豆1haあたり30トン、鶏糞堆肥  1haあた り4トン、牧草堆肥1haあたり20トンを投入している。土壌の有機質は現在、8%を超え、10%の水準に向かっ ている。

4.除草剤と農薬は?
   雑草は乾季にほとんど生えず、雨季に伸びたものは重機や手作業で刈り取っている。そのため除草剤は使用して   いない。また、収穫終了後、直ちにブロワーで木の根元に落ちた葉や実を掃きだし、大型バキュームカーで吸い上げ  て、清掃することで、農薬を減らし、最小限の量を使用するレベルになっている。

5.トルマリン農場の精選方法

5.1 セミウオッシュド(SEMI-WASHED)方式による精選
   イ)赤実と黒実を新鮮な水にくぐらせ、比重の違いを利用し、分別。
   ロ)赤実はパルプド・ナチュラル(果肉除去)方式で、デスカスカード装置のドラムを通し、果肉を除去して、パーチメ   ントにする。
   ハ)柔らかい完熟実は遠心力でドラム外に飛び出し、未熟実と剥がれた皮がドラム内に残ります。未熟実と剥が    れた皮は果肉と一緒に堆肥(6ヶ月発酵で、)にされる。
   ニ)パーチメントは天日乾燥を15分間隔で熊手攪拌しながら3日間行なう。
   ホ)このパーチメントをロータリー式乾燥機で35時間かけて、10.5〜11%の水分まで低温乾燥する。なお、豆の    温度が太陽熱の照射を受けた温度と同じ35度くらいになるように、熱風温度(45度)を調整する。
   へ)10.5〜11%の水分まで低温乾燥されたパーチメントは木製サイロで約60〜90日間貯蔵し、熟成させる。サ    イロ内の温度は23度Cに保っている。

5.2 アンウオッシュド(ナチュラル)方式による精選
   イ)ナチュラルとは本来、「果肉を剥かないで乾燥させたもの」で、「黒実」と「果肉をつけたままテラスで20〜25日乾   燥させたもの」の両方を指しています
   ロ)トルマリン農場では樹上で黒く熟した実をクマデを用いて15分間隔で20〜25日かけて天日乾燥している。

6.精製・選別・出荷
  イ)精製・選別は出荷の15日前に行なわれる。
  ロ)パルプド・ナチュラルの豆はまず精製工程でパーチメントを除去され、次に選別工程でスクリーン選別、比重選別、 色素選別にかけられて、出荷される。
  ハ)ナチュラルの豆は精製工程で外皮を剥く工程とパーチメントを剥く工程を経てから、選別工程でスクリーン選別、  比重選別、色素選別にかけられて、出荷される。

その3.農場主 島野俊弥さんの人となり
     1958年10月移民船「ブラジル丸」でブラジル・サントスへ。島野俊弥さんが26歳のときである。
     動物医薬品関係の仕事に就く。
     1986年現在の地でコーヒー栽培を始める。
     島野さんの方針は量産第一ではなく品質重視。目標は「最高のコーヒー豆」。
     「トルマリン・コーヒー」を生み出すまで、試行錯誤を10年近く繰り返すという苦労をしている。
     生産農場直送という形にこだわっている。
     その理由について、「もの」を買うということは、その「もの」の背景にある様々なものまでを自分の生活の中にう    けいれることであり、コーヒー豆であっても、そこには生産に携わった多くの人々の思い、育んだ大地の記憶がしっ    かりと刻みこまれているからであると書いている。

あとがき
 島野俊弥さんは科学的な思考を持つ信念の人であると思います。これからも「最高のコーヒー豆」を作り続けていただきたいと思っています。(2007.10.1.キングスコーヒー 衛藤 正徳)
                       


8.ブラジルコーヒーの話(3) (2006.9.8.) 
ブラジルセラード訪問記その1〜その6 
セラードを訪問した際に当時の上原社長からセラードの歴史から農園について熱心に教えていただきました。上原社長が昨年(平成18年)の12月に亡くなられたのは本当に残念なことです。ご冥福をお祈りいたします。(2007.4.12.)

[1]伯剌西爾セラード訪問記その1(はじめに)
 先日、2005年10月5日から15日にかけて、ブラジルのセラードというコーヒー生産地とその中核都市パトロシーニョおよびサンパウロの街とコーヒーの積出港で旧コーヒー取引所があるサントスを巡ってきました。はじめに、とくに印象に残ったことをかいつまんでお話ししましょう。
 気候は春で、朝・夕は25度前後、昼間は30度を超えるくらい。また都市や農園は高原地帯にあり、湿度が20%くらいで過ごしやすい陽気でした。とにかく広々とした大地と抜けるような青空を見て気持ちが大きくなりました。農園には見渡す限りコーヒーの木が植えられていて、圧倒されました。
 食べ物は肉と豆料理が中心でご飯も必ずありました。豆はともかく肉は胃にもたれ参りました。果物と野菜は豊富で美味しく、胃が喜んでいました。コーヒーはエスプレッソでした。大体において苦味のつよい味で、肉をたべたあとの口はさっぱりするようなコーヒーでした。
 サンパウロでとくに危険な目にはあいませんでしが、ちょっと驚いたのは、スーパーでガードマンが拳銃をさげて入り口で警備していたことでした。銃社会であることを実感しました。
 サントス旧コーヒー取引所(現在コーヒー博物館になっている)はじつに立派な建物でした。、ほぼ昔の姿のままで保存され、当時のブラジルコーヒーの繁栄が伝わってきました。と同時に私の父・六蔵はここで1930年ごろ、コーヒーの勉強(鑑定士の資格をとるまでの2年間位)をしていたのだなと思いが胸にこみ上げ、感無量になりました。(2005.12.05記)

パトロシーニョの丘にある救


[2]伯剌西爾セラード訪問記その2(サンパウロ到着)
 これはセラード・コーヒーが企画した農園視察ツアーである。私を含め14人。若い人が多い。素晴らしいことだ。2005年10月5日19時10分に成田を出発。途中、ニューヨークで2時間の休憩。2005年10月6日朝の6時40分(日本時間18時40分)にサンパウロ到着。約24時間の旅である。
 到着するとセラードから派遣された通訳のMr.Yoneda、Mr.Kawasima、Mr.Uranoの3氏が笑顔で出迎えてくれた。バスですぐにサンパウロの街の朝市を見学。朝市は市営パカインブ―・サッカー場(1940年創立 3万人収容)の横の広場でひらかれていた。朝市は常設で色とりどりの野菜や果物がうられていた。ここで食べた小さいバナナは香りよく甘みがあり、実に美味しかった。
 またサッカー場の外壁にはペレやブラジル代表の記念プレートが飾ってあり、さすがはサッカー王国のサッカー場である。プレートの前で撮った写真はサッカー好きの筆者には良い記念になった。
 この後、東洋人街(リベルダージ)へ。道路にはなんと阪神リーグ優勝おめでとうの横断幕が飾ってあった。太陽のカフェ(Cafe Sol)というカフェでブラジル・コーヒーを味わう。エスプレッソで抽出した苦味ばしったコーヒーである。サンパウロのコーヒーは濃いのだそうだ。 
 きょうはかなりの強行軍でこれからミナスのウベランジェまでフライトして、宿泊であった。
2005.12.21記)

朝市風景


[3]伯剌西爾セラード訪問記その3(パトロシーニョからシャパドン・ボタニカ農園へ)
10月7日はウベランジェのホテルを出発してパトロシーニョへ。パトロシーニョはセラードの中核都市のひとつで、開かれて約700年、市制が敷かれて133年(1873年)の由緒ある街である。ここにの丘には救済者記念塔(キリスト像)がある。リオのものが有名であるが、ここのキリスト様もなかなか素晴らしい。
このあとすぐに農園へは行かず、なんとビンガの蒸留所へ。ビンガはサトウキビの絞り汁を発酵させ、蒸留した後、1年寝かせ、さらにオークの樽で3年貯蔵して出来上がるブラジル特産のお酒。39度。作るところを見学して、味見をさせてもらいました。蒸留したての味は、まだ粗さがあり、まろやかさはなく、アルコールとサトウキビの甘いかおりがありました。昼食後、セラード・コンテストと同時開催されている展示会へ。夜はセラード・コンテストの表彰パーティに出席。

翌日の8日の午前に、セラード・コンテストのウオッシュド(水洗品)部門の入賞ロットをカッピング。それぞれ入賞するに値するコーヒーである。全体的に甘みに富んでいて、雑味がなく、後味がよい。やはり1位は1位であった。
午後はシャパドンというところにあるボタニカ農園へ。湖がある風光明媚なところにある。パウロ・セルソ・アルメイダ氏が農場主。ここは比較的小さい農園で、収穫量は3万表である。気温は年平均で22度C、最高で30度C。コーヒーの花が咲き、青い実が出来ていた。今夜はアラシャという保養地にあるホテルに宿泊。(2006.1.23記

カッピング風景

ボタニカ農園主のパウロ・セルソ・アルメイダ氏と

[4]伯剌西爾セラード訪問記その4(アラシャからセラードの農園へ)
10月9日。午前中はアラシャのバレイロホテルにある大きいクアハウスでのんびり休息。広瀬先生やツアーの皆と温泉プールでを楽しんだ。アラシャの大平原を車で移動。失われた地平線という大平原にあるレストランで昼食。ここからはかなたに果てしなく広がる地平線と雄大な景色が見える。そこにパラグライダーが蝶の優雅に舞っていたのが印象的だった。そのあと金属鉱山や市内を見学して、パトロシーニョのミナスホテルに戻り、宿泊。

10月10日。午前中、カセール本部で、農薬メーカーのシンジェンタによるコーヒーに使う農薬の話とセラードの農業技師・ピッシン氏によるコーヒーの病害虫の話を聞く。
午後、カステリャナ農園とマカウバ・デ・シーマ農園を訪問。

カステリャナ農園はモンチ・カルメロにある大きい農園。農園主はジオゴ・トゥデラ氏。総面積800ヘクタールで、コーヒーの木は200ヘクタールに3000本とのこと。大規模なピボ・セントラルによる灌漑システムは圧巻であった。肥料は水に混ぜて、コンピューター・システムで与えている。
ウツカペの認証を取得している。

マカウバ・デ・シーマ農園はパトロシーニョにあるきれいな農園。農園主はアントニオ・ジョゼ・デ・カストロとグラウシオ・デ・カストロ親子。面積が230ヘクタールで、約9千袋の生産量。この農園の名前の由来はマカウバ(背の高い椰子)が見える農園というところから来ているとのこと。ここで、ケーキとコーヒーを馳走になったが、美味しいの一語であった。(2006.3.20記)

アラシャの失われた地平線

カステリャナ農園ジオゴ・トゥデラ氏と

マカウバ・デ・シーマ農園アントニオ・ジョゼ・デ・カストロとグラウシオ・デ・カストロ親子と


[5]伯剌西爾セラード訪問記その5(農園そしてEXPOCACCER見学)
 10月11日、朝に散歩ホテルの付近を散歩。この近くを道路が通っていて、この歩道からの眺めが良い。道路は広く、片側2車線で歩道と中央分離帯があり、中央分離帯には椰子の木が植えられていて、風情がある。この日の散歩ではちょっとしたハプニングが。なんと馬小屋から逃げてきた馬が中央分離帯でのんびりと草を食んでいるのです。しばらく見ていると飼い主があわてて出てきて馬の首に縄をかけようとするが、馬は悠然と歩いてすたこらにげてしまう。追いかけ追いかけて首に縄をかけて帰っていきました。のんびりとした風景でした。
 ミナスのホテルを出発して珈琲農園へ。最初の農園はアグアリンパ農園。農園主はフランシスコ・セルジオ氏。農園は全部で、5農場あり、総面積で約1000ヘクタール。生産量は4〜4.5万袋。ここでは主にコーヒー豆の精製設備を見学。今の時期は設備は稼動していないので、設備の概要しかわからなかった。
 次に訪問した農園は、ボアビスタ・ドイス農園。農園主はジョゼ・ルイス氏。この農園では実際の農薬管理の状況を見学。きちんと管理された農薬保管室やシャワーのある着替え用トイレがあり、農薬管理に気をつけている様子を理解できた。ここで昼食にフランゴ・カイピーレという鳥とニンニクの葉の煮込み料理をご馳走になったが、実に美味しかった。
 CACCER本部へ移動。EXPOCACCERを見学。案内をしてくれたGeraldo Edstaqio Miranda氏によると、運営母体は生産者組合で、そのメンバーは225人。コーヒーの精選と輸送の仕事を行っている。取り扱い量は年間60万袋で、セラードの生産量の20%を占めている。スペシャルティコーヒーを主に扱っている。原産地証明や品質保証書の発行もここで行なっている。見学した時コーヒー豆の袋をつんでいたがその高さは豆袋にして30袋(6m)位。日本のように地震のあったらたいへんだなと余計な心配をした。
 この後、アペラシオン(Apellation Cerrado Contorolle)についてのセミナー。セラードがアペラシオンを取得するまで10年を要したこととやその成立条件がセラードのエンセイ・ウエジョ・ネット氏によって語られた。 (2006.4.3記)

ボアビスタ・ドイス農園ジョゼ・ルイス氏と

積みあげられたコーヒー豆袋


[6]伯剌西爾セラード訪問記その6 (旧サントス珈琲取引所そして帰国)
 10月12日、カセール本部でコーヒーのいろいろなバラエティ(品種)のカッピング。ブルボン、カツアイ、ムンドノーボなど10種類。それぞれの香味の違いに気づかされる。
昼食後、セラードを後にしてウベランジェ空港からサンパウロへ。ウベランジェの空港で飲んだエスプレッソはなかなか美味しかった。
 10月13日、サントスへ。いよいよ旧サントスコーヒー取引所の見学である。この旧サントスコーヒー取引所には筆者の強い思い入れがある。それは筆者の父が1930年ころにここでコーヒーの勉強をしていたときに撮影した写真をいつも見ていたからにほかならない。
 サントス港沿いの道から見上げると時計塔が聳え立っている。塔の中央にはBOLSA DE CAFEの文字がある。この塔は旧サントスコーヒー取引所の一部にすぎない。塔から続く建物に沿って歩くと旧サントスコーヒー取引所のドーム型の建物に行き着く。ここが正面入り口である。ここの建物の中央にもBOLSA DE CAFEの文字がある。見事な建物で、まるで宮殿か教会のようである。中に入ると大理石の床とステンドグラスの天井と周囲のコーヒーの絵が見るものを圧倒する。当時のコーヒー産業の繁栄がしのばれる。
 旧サントスコーヒー取引所を見学の後、SCAA(アメリカスペシャルティ―コーヒー協会)の会長クリスチャン・ウォルサーズの会社「ワルター」を訪問。
 サントスからサンパウロに戻り、おしゃれなケーキ屋さんのオフネルでコーヒーブレイク。夕食後、ガルーリョス空港から日本へ向けて帰国の途についた。
 10日間にわたるセラード訪問記は以上もって終わります。父の時代には船旅で2〜3ヶ月を要していたが、現在では24時間と所要時間は1/60〜1/90に短縮されている。それでもブラジルは遠い国である。今回の旅は同行者に若い人が多く、彼らと議論をして私にとって大変有益なであった。最後に、このような機会を提供してくれたセラードコーヒーの上原社長をはじめ、スタッフの方たちに感謝をいたします。ありがとう。
2006.5.17記

旧サントス珈琲取引所
(BOLSA OFFICIAL DE CAFE)

7.ブラジルコーヒーの話(2) (2005.4.13.)
ブラジルコーヒーの歴史
1500年、ポルトガルの航海者「カプラル」によって発見される。
1532年、ポルトガルの植民地となる。
1720年、中南米にコーヒーが最初に導入される。
 仏領マルチニーク島の駐屯歩兵隊海軍将校「ガブリエル・マチュード・クリュー」に よってカリブ海の仏領マルチニーク島に移植される。
1727年、ブラジルへはじめてコーヒーが伝来。
 パラ・マラニョン県の警備隊長代理「フランシス・デ・メロ・パリエタ大佐」によって、  仏 領ギアナからブラジルパラ州へ移植される。
1732年、最初のコーヒー輸出。パラ県からリスボンに750俵を輸出。
1761年、リオデジャネイロにコーヒーが移植され、栽培がはじまる。
1780年、サンパウロにコーヒーが移植され、栽培がはじまる。
1850年頃、サンパウロでコーヒーの本格的栽培がはじまる。
1859年頃、レ・ユニオン島からブルボン種が持ち込まれる。
1875年、ブルボン種の栽培がはじまる。
1889年、革命によって連邦共和国となる。
1908年(明治41年)、日本からの移民始まる。
1918年、大霜害
1920年、パラナ州で本格的栽培がはじまる。
 同年、リオデジャネイロに珈琲取引を行うコーヒー商業センター(セントロ・デ・コメルシオ・ド・  カフェ)設立。
1922年、サントスに公認珈琲取引所(ボルサ・オフィシャル・デ・カフェ)設立。
1924年、パウリスタ恒久コーヒー保護院設立。
1925年、同院の名称をサンパウロ州コーヒー院に変更。
1927/1928年、第一回目の生産量のピーク(169万トン)。
1929年、世界大恐慌。価格大暴落。
1929/1930年、第二回目の生産量のピーク(194万トン)。
1930年、黄色ブルボン種の発見。
1931年、国家コーヒー委員会設立。
1931/1932年、第三回目の生産量のピーク(174万トン)。
1933年、国家コーヒー局(DNC)設立。
1933/1934年、第四回目の生産量のピーク(199万トン)。
1934年、コーヒー技術庁設立。
1943年、ムンドノーボ種の発見。
1950年頃、ムンドノーボ種の栽培始まる。
1975年、大霜害

参考文献:1.オールアバウトコーヒー(W.H.ユーカーズ著、UCC監訳)、
       2.コーヒーの事典(コーヒー文化学会編)
       3.衛藤六蔵履歴書
エピソード




エピソード














豆余り時代
1927年から1934年にかけて4回の大豊作。
1928年(昭和3年)、衛藤六蔵渡伯。
1929年(昭和4年)、衛藤六蔵サントス公認珈琲取引所鑑定室に入所。
1931年(昭和6年)、衛藤六蔵ブラジル政府公認珈琲鑑定格付員の資格授与。






6.ブラジルコーヒーの話(1) (2005.4.13.) 
ブラジルとコーヒー
 ブラジルはポルトガルの航海者「カプラル」によって1500年に発見されました。その時カプラルは「赤い染料の木」を発見し、「赤い染料の木=パウ・ブラジル(Pau-brasil)」の島としてヨーロッパに伝えました。これが国名の由来となりました。
 ブラジルの正式な国名は「ブラジル連邦共和国(Federative Republic of Brazil)」です。首都はブラジリア言葉はポルトガル語、人口は1億7600万人です。
 南米大陸の東部に位置し、面積は851万平方キロメートルで南米大陸の約45%を占め、日本の22.5倍です。北部はアマゾン流域の低地と熱帯雨林地帯、中南部がブラジル高原(300−1000m)で国土の約半分を占めている。国土の十分の九は熱帯だが、ブラジル高原はすごし易く、南西部でコーヒー・綿花が生産されている。
 ちなみにコーヒーの生産量は239万トン(2002年)、世界全体で756万トン。

参考文献:コーヒーブレイクJAN.2005 vol.55(全日本コーヒー協会)
       標準百科事典(保育社)

5.コナコーヒーとコーヒー農園の話 (2000.12.1)
カイオーファーム(KA'IO FARM)
 キングスコーヒーはハワイのカイオーファーム(KA’IO FARMS)という農園から、コナコーヒー「WING of the Morning」(100%Pure Kona Fancy Grade)を輸入しています。。これは2000年ニュークロップ(今年の採れたてのコーヒー豆)です。ついでですが、何年も寝かせた豆をオールドクロップといいます。私はニュークロップにコーヒー本来の味があると思っています。カイオーファームのパンフレットを参考にしながら、コナコーヒーとカイオーファームについて紹介しましょう。

コナコーヒーとは・・・
コナコーヒーとはハワイ島のコナ地区で生産されているコーヒー豆でハワイ州の農務省によって認証されたものです。そのグレードは、エクストラファンシー、ファンシー、No1と分類されます。そのテイストは、(1)フルボディ=旨み、(2)ディスティンクティブ テイスト=上品な味、(3)ロー アシディティ=軽やかな酸味と表現されています。

ハワイ島って・・・
ハワイ島は、ホノルルから東へ飛行機で40分位のところにあるハワイ諸島で最も大きな島です。その面積は約1万平方km(岐阜県とほぼ同じ)、人口は約13万人です。たいへん穏やかで美しいところです。

ハワイ島で飲むコーヒーは・・・
ここでのんびりと海」をみながら飲むコーヒーの味はなんともいえず旨い!のですが、とにかく深煎りで、苦みたっぷりの芳醇なコーヒーです。しかし、日本人には味が強すぎていやだという方もいらっしゃいます。そこでキングスでは苦みを感じない酸味系のミディアムローストと苦み系のダークローストの2種類を用意しています。

コーヒー栽培・・・
コナのコーヒー農園は小規模なものが多く、現在約700の農園があります。
ハワイ島でのコーヒー栽培は1800年代に東部のウインドワード地区から始まり、次第に条件の良い西部のコナ地区に移っていきました。コナのHualalai山やMaunaloa山の斜面(500−2800フィート)が非常にアラビカコーヒーの栽培に適していたのです。
その理由は、
(1)温暖な海洋性気候
(2)朝の光
(3)午後の曇天
(4)雨
(5)水はけの良い火山性土壌
(6)風当たりがすくない。
しかも、自然条件がきびしく、機械化が困難で、人手による丁寧な作業が行われているため、価格は高いものの、非常に高品質のコーヒー生産がおこなわれ、現在も続いているのです。そしてその裏には日本人の移民の方々の血のにじむような努力もあったのです。いまでもコーヒー豆の乾燥床のことを「The Hosidana Deck」とよんでいます。

カイオー ファームのこと・・・
KA’IO FARMS はハワイ島のカイルアコナにあるコーヒー農園です。KA’IO FARMSは非常に手をかけ、プライドをもって高品質のコナコーヒーを生産している農園でもあります。サチアナンダさんがオーナーです。私は1998年7月に訪問して、お会いしました。たいへん温和で、素晴らしい方です。それと同じように、コーヒー豆もきれいなグリーンで、飲んだ味もまた素晴らしいものでした。今回もまた最高のコーヒー豆をおくってくれました。
最後にサチアナンダさんとカイオーファームのスタッフに「ありがとう」と感謝して筆をおきます。

カイオーファーム
のパンフレット
カイルア コナの海
コナコーヒーの木
The Hosidana Deck

4.スリランカには美味しいコーヒーもあった! (2000.10.18)
◇スリランカはインド洋に浮かぶ緑の真珠と言われる美しい島で、広さは北海道とほぼ同じです。
コロンボが都市として有名ですが、首都はスリ・ジャヤフルデナプラ・コッテという長い名前のところです。仏教が盛んでいたるところに立派な寺院があり、人々は穏やかです。

◇「スリランカのコーヒーです」というと、みなさん「スリランカにコーヒーがあるのですか?」と聞かれます。スリランカに美味しい、幻のコーヒーがあるということを聞いた時、私も最初は本当かな?と思いました。今のスリランカは、紅茶の国・セイロンテイの国として超有名ですから。しかし19世紀中頃までは世界最大のコーヒーの輸出国だった歴史を持っていたのです。それがサビ病の発生によりほぼ全滅し、紅茶の栽培に切り替えらたのです。そのため今ではコーヒーは栽培されていないと思われていたのです。

◇幻のコーヒーはニードウッドという紅茶屋さんで栽培されていました。スリランカを訪れ、幻のコーヒーを自分の目で確かめたのはもう6年も前の1994年3月ことです。それはみごとな豆でした。なんともいえない味わいでした。それ以来、きょうまで取扱っております。「幻の」と言えるほど希少で、芳醇な香りと味をもつスリランカコーヒーをすこしでも多くの皆さんに飲んでいただければ幸いです。(写真はマウントラビニアの海岸)

最後に、不幸な内戦の記事がときどき新聞に載ります。早く終わることを願って筆を置きます。

3.コーヒーにも日本の四季があっていい。
日本には四季があります。四季によって好む味が異なります。料理は旬の味を大切にしています。四季に応じた美味しい料理があります。ところがコーヒー・紅茶にはほとんど見あたりません。日本の四季に応じた美味しいコーヒー・紅茶があっていい。春には軽い感じのコーヒー・紅茶が、夏にはさっぱりとしたコーヒー・紅茶が飲みたくなります。秋になると夏よりも旨みのあるコーヒーと紅茶が飲みたくなります。正確に言えばより美味しいと感じるようになります。人間の感覚は面白い、そして鋭い。この感覚を大切にしたいと考えました。そんなところから、四季のブレンドが誕生しました。
春の香
春のコーヒーのテーマは「香り」です。春の息吹を感じ、草木が芽吹くと、身も心も軽く感じます。そして春をなによりも感じるのは春の山菜「うど」などが醸し出す香りです。春のコーヒーは香りと軽やかな味わいに創りあげました。
夏のせせらぎ
夏のテーマは「せせらぎ」です。山清水のような清冽さを感じる味わいが理想です。夏のコーヒーはすっきりとした酸味と苦味のある味わいに創りあげました。
秋のシンフォニー
秋のコーヒーのテーマは「シンフォニー」すなわち「味の交響曲」です。秋になると不思議に食べ物が恋しくなり、コーヒーが飲みたくなります。旨みのあるコーヒーが飲みたくなります。そのまま飲めば旨みが舌の上でシンフォニーを奏で、食べ物とともに飲めば、食べ物に和するものが理想です。秋のコーヒーは香り高く、旨みがあざやかで、食べ物にも合うコーヒーに創りあげました。
冬:
冬のコーヒーのテーマは「光」です。さらに言えば「光」の輝きです。太陽の光、暖炉に燃える暖かな光、パーティのきららかな光、家に灯る光など、光はぬくもりや希望そして夢を与えます。クリスマス・ケーキとともに飲んで美味しいコーヒー、鍋ものを囲んでわいわい、がやがや食べて飲んだ後でも、おそばとお酒の後でも、おぞうにやおとその後でもちょっと一杯飲めるコーヒー、そしていつ飲んでも美味しい、輝いているコーヒーが理想です。冬のコーヒーは香り高く、凛としてコクがある味わいに創り上げました。

     
2.キングスコーヒーの珈琲豆の美味しさの秘密
 
1. 上質の生豆を厳選。
  上質の基準は香り高く、後口の良いコーヒー
 
2. それぞれのコーヒー豆に適した焙煎。
  コーヒー豆はマジックビーンとよばれ、焼き方で味が千変万化します。
焙煎ではノウハウと先進技術を駆使して、適切なロースト・ポイントを判断して、焼き上げていきます。
苦味より酸味を生かす場合には、苦味と酸味のバランスがとれた美味しいポイントで。
酸味より苦味を生かす場合には、酸味をそれほど感じないで苦味マイルドなポイントで。
 
3. 調和のとれたブレンド。
  衛藤六蔵から引き継いだブレンド技術で個性と調和のとれた香味を創りあげています。
 
4. きちんとした鮮度管理
  飲みごろの珈琲豆の販売を心がけています。コーヒー豆は焙煎直後より1−2日たったほうが美味しい。
キングスでは焙煎後1週間以内で売り切るように配慮しています。
 
5. キングスコーヒーの美味しさの秘密は上記4つのコンセプトのすべてを忠実に守り、美味しいコーヒー作りに励んでいることです。

     
1.マジックビーンって知ってる

珈琲紅茶道場(9月15日)でマジックビーンの話を書きましたが、あさおマイタウン21という地域情報紙に「マジックビーンって知ってる?キングスコーヒー」という記事が掲載されました。以下にこの記事を紹介しましょう。
魔法の豆、といってもジャックと豆の木の話ではありません。聞き慣れないこの言葉、香りに敏感な人ならピンとくるかもしれない。そう、ばい煎することで文字通り七変化するコーヒー豆はこんな言葉で表される。
 麻生区王禅寺西にあるキングスコーヒーには、マジックビーンがいっぱいだ。
 「マジックビーン」の言葉を好んで使ったのは、キングスコーヒー店長衛藤正徳さんのお父上。故衛藤六蔵さんは日本人で初めてブラジルのコーヒー鑑定士(クラシフィカド―ル)資格を授与された人。昭和6年のことだ。コーヒー鑑定士は視覚・味覚・嗅覚・触覚そして知識など様々な素養が必要だ。ブラジル・サンパウロ市内には鑑定士学校があり、ポルトガル語の授業そして試験が行われるそうだ。このハードルの高さゆえか、現在でも日本人にコーヒー鑑定士は多くはいない。(つずく)
 衛藤さんはコーヒーの知識はもちろん、おいしさ、不思議さ、奥深さをコーヒー鑑定士の父に教わった。コーヒー豆をマジックビーンと呼ぶのもお気に入り。
 コーヒーの味は豆の産地・種類、ばい煎具合で大きな違いが出る。自らもコーヒー好きな衛藤さんは「マイロースト」と名付けたサービスをしてい
る。お客様の好みに合わせたコーヒーを提供したくて始めた。35種類以上ある豆とばい煎具合を選び、小型のばい煎器へ。15分ほどでばい煎される。おすすめはハワイコナやバリ、トラジャ等。好みの味を伝えれば、豆の種類やばい煎具合を衛藤さんが考えてくれる。
 コーヒーは飲むと同時に香りを楽しむが、実はばい煎するときの香りが一番。マイローストでは香りも存分に楽しめる。「季節によって美味しいと感じるコーヒーは違う。春は軽め、夏は苦み、秋はコク、冬は徐々にあっさりが美味しい」と衛藤さん。香りを楽しみながら、衛藤さんとコーヒー談義を交わしてみては。
 この記事は、あさおマイタウン21 2001年11月1日号に掲載されたもの
です。お問い合わせは(株)マイタウン21 TEL.. 044-954-2555

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  • お問合せ先Tel/Fax : 044-952-2464
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