珈琲紅茶Essay・・・
珈琲紅茶Essay ■衛藤六蔵物語 お問合せはinfo@kingscoffee.comへ
1.コーヒーにも日本の四季があっていい。
2.バンコックコーヒー事情
3.コーヒーと食文化の行方
4.アメリカのサンディエゴで美味しいアメリカンに  出合った!
5.コーヒーの玉
6.MOMA
7.OLの一人言
8.古い写真・古い資料
9.ケーキとコーヒー
10.コーヒーの記憶
11.伊藤 博先生の思い出
12.ケベックのコーヒー
13.焼き芋とコーヒー
14.3月の豊後竹田
15.名古屋万博
16.珈琲豆袋がお買い物バッグに変身
17.〜22.伯剌西爾セラード訪問記その1〜6
は珈琲/マジックビーン情報に移りました。
23.ドイツワールドカップサッカー観戦その1
24.ドイツワールドカップサッカー観戦その2
25.ドイツワールドカップサッカー観戦その3
26.ドイツワールドカップサッカー観戦その4
27.窪田真規個展を見て
28.石川県金沢を訪ねて
29奥山義人先生が復刻した初代歌川広重の東海道五十   三次版画展を見て
30.豊後の竹田を4月に訪れて
31.コーヒーの原点
32.コーヒーと私
33.味を描くということ
(「味という言葉・味覚という言葉」は珈琲道場をご覧下さい)
34.ブラジル移民100周年について
(「ブラジル移民の歴史」はマジックビーン情報をご覧下さい)
35.ブラジル移民100周年についてその2
写真展「ブラジル移住100周年・開拓の歴史74枚」をみて。
36.ブラジル移民100周年についてその3
37.ブラジル移民100周年についてその4
「日系ブラジル移民史」伊藤博著コーヒー博物誌の紹介
38.ブラジル移民100周年についてその5
「日本移民100周年記念切手」
39.
ブラジル移民100周年についてその6
「まとめ」
40.ミシュランについて

2008.12.4.
[40]ミシュランについて

ミシュランについて

20081128日の朝日新聞にミシュラン東京の影響力/にぎわうガイドや飲食界という記事があった。筆者は違和感を感じた。そこでミシュランについて考えてみた。

1.フランスのミシュランについて

1)ミシュランはフランスのタイヤメ−カーが考え出したフランス国内のフランス料理店の格付けとしてすでに存在。
2)ミシュランの歴史は?
3)格付けの方法・基準は?
 だれが、いつ、どこで、なにを、どういう基準で格付けするかが問題。
 イ)格付け人:フランス人?
  ロ)対象とする料理:フランス料理?
  ハ)調査する場所:フランス国内のフランス料理店?
  二)調査する時期:?ホ)調査回数:毎年?
  へ)有効期間:1年?
4)味覚の基準は?
  甘み・酸味・苦味・コクなど
など
5)フランス料理をフランス人以外の人間が格付けし、比較することも一考の余地あり?
6) 格付けの方法・基準の公開が望まれる

2.日本のミシュランについて
1)日本料理の歴史
  日本料理には長い歴史があり、日本料理店には番付(格付け)が存在している。
  日本料理には四季折々の料理・味覚がある。
2)格付けの方法・基準は?
  だれが、いつ、どこで、なにを、どういう基準で格付けするかが問題。
  日本人とフランス人の味覚の差や日本とフランスの食材の差も問題。
 イ)格付け人:
   フランス人?それとも日本人?
   専門家それとも素人?
   個人?それと集団(何人)?
   フランス人の日本料理に対する実際の経験がどのくらいあるか
   フランス人と日本人とでは味覚に差がある。
 ロ)対象とする料理:日本料理?
   フランス国内の日本料理かそれとも日本国内の日本料理か
 ハ)調査する場所:フランスかそれとも日本か
 二)調査する時期:春・夏・秋・冬っか?
   夏と冬では料理内容も食する人間が要求する味覚も異なる。
 ホ)調査回数:毎年4回?
 へ)有効期間:1年?
4)味覚の基準は?
  甘み・酸味・苦味・コクなどなど

3)手数料・登録料は?
  儲かるのは料理店それとも格付け人(個人または団体)?
4)食する人間(お客)の側の利害得失は?

3.最後に

 日本ミシュランにはいろいろな問題点が存在しており、日本の食文化の歴史を歪める可能性が大きい。日本料理と日本料理店の格付けの問題は日本の作り手(料理人)と食する人間(お客)の今後の大きな課題である。                              (2008年12月4日 衛藤正徳(記))


2008.12.
[39]ブラジル移民100周年についてその6(まとめ)
今年もあと1ヶ月になりました。ブラジル移民100周年の紹介も今回で終わります。朝日新聞にはたくさんの記事が掲載れました。これらの記事が本になって出版されると良いと思います。

これまでの記事は以下のとうり。
1.ブラジル日系移民100周年記念コーヒー「ブラジル・セラード・マルコス・ミヤキ」がセラード・コーヒーか ら2007年5月に発売。
2.コーヒー文化学会でブラジル移民100周年記念講演会が昨年12月に開催。
(コーヒー文化学会ニュース参照)
3.畔柳 潤氏が「ブラジル移民と日本のコーヒー」というエッセイを「珈琲と文化(36号?)」に発表。
4.「移民と歩んだポルトガル語辞書」という記事が朝日新聞(2007年6月18日)に掲載。
5.「移民100年でキャラクター」という記事が朝日新聞(2008年1月19日)に掲載。
6.「ブラジル移民の歴史」をマジックビーン情報に掲載
7.「ブラジル移民100周年について」をエッセイにも掲載
8.「ブラジル移住100周年・開拓の歴史74枚」という記事が朝日新聞(2008年3月14日)に掲載。
9.「新天地へそして/日本->ブラジル・移民100年」という記事が朝日新聞(2008年4月28日)に掲載。
10.「日系ブラジル移民100周年記念コーヒー第2弾「ブラジル・セラード・カンタトーバ農園・ミツオ・ナカオ 」がセラード・コーヒーから2008年4月に発売。
11.「ブラジル移民にささげる歌」という記事が朝日新聞(2008年6月19日)に掲載。
 一度歌を聴いてみたいものです。
12.「日系ブラジル移民史」伊藤博著コーヒー博物誌P220〜226八坂書房
 伊藤博(もとコーヒー文化学会副会長)が日系ブラジル移民の歴史を簡潔に正確に書いている。その要  約をエッセイ37(ブラジル移民100周年その4)に掲載。。
13.500円記念コイン「日伯交流年・移住百年」が7月に発売された。記念に一つ購入しました。片側には笠 戸丸の船の絵とブラジルの地図が描かれている。すこしごちゃごちゃした感じ。他方の側には植物の絵。 種類は?ですね。すこし物足りない記念コインですが、記念になるコインです。
14.日本移民100周年記念切手が日本とブラジルで発売されている。
 先日、セラードコーヒー横山氏からブラジルの日本移民100周年記念切手を頂戴しました。ありがとうござ います。ブラジルの切手は2枚1組で一つは笠戸丸の絵で出発をあらわし、もう一つは折鶴の絵で日本と ブラジルの友好をあらわしている。なお、日本の切手は10枚1組で1枚で移住開始当初のビザスタンプとコ ーヒー豆をはじめ、イグアスの滝やモルフォ蝶などです。どれも図柄と色彩がすばらしい切手です。エッ  セイ38(ブラジル移民100周年その5)に掲載。
15.「日系人の結婚式再現/料理文化・融合楽しむ」という記事が朝日新聞(2008年8月28日)に掲載。
16.「縁・父は土に母は人魚に・40年後やっと会えたね」という記事が朝日新聞(2008年11月2日)に掲載さ れました。移民するということの大変さが良くわかる記事でした。
17.「変わる日系文化4ハワイ・ブラジル/オキナワン/地域文化超え世界へ」という記事が朝日新聞(2008年11月16日)に掲載。ハワイでもブラジルでも沖縄出身者は元気がよく、自らを英語でオキナワンと呼んでいる。
18.「日系人に愛され半世紀/大津美子「ここに幸あり」」という記事が朝日新聞(2008年11月15日)に掲載。
19.「ブラジルと横浜1/思い/「あこがれ」抱き渡航の人も」という記事が朝日新聞(2008年11月11日)に掲載。
20.「ブラジルと横浜2/父/異郷の地 渡る人に「目配り」」という記事が朝日新聞(2008年11月12日)に掲載。
21.「ブラジルと横浜3/名残/最後の日々 暖かな「思い出」」という記事が朝日新聞(2008年11月13日)に掲載。
22.「ブラジルと横浜4/花嫁/大半の女性 写真・文通で嫁ぐ」という記事が朝日新聞(2008年11月14日)に掲載。
23.「ブラジルと横浜5/故国/父祖の歴史知りたくて交流」という記事が朝日新聞(2008年11月15日)に掲載。
以上。

2008.7.24.
[38]ブラジル移民100周年についてその5
日本移民100周年記念切手が日本とブラジルで発売されている。
 ブラジルの記念切手をセラードコーヒーの横山氏から頂戴しました。ブラジルの切手は2枚1組で一つは笠戸丸の絵で出発をあらわし、もう一つは折鶴の絵で日本とブラジルの友好をあらわしています。すばらしい切手です。ありがとうございます。(写真参照)
 また日本の記念切手を先日、購入しました。10枚1組で移住開始当初のビザスタンプとコーヒー豆をはじめ、笠戸丸、モルフォ蝶、オニオオハシ、リオのキリスト像、イグアスの滝、サルバドール歴史地区などです。色彩があざやかです。

ブラジルで発行された日本移民100周年記念切手

2008.7.6.
[37]ブラジル移民100周年についてその4
 伊藤博(もとコーヒー文化学会副会長)が「日系ブラジル移民史」で日系ブラジル移民の歴史を簡潔に正確に書いています。この概要を伊藤博の言葉を引用しながら紹介しようと思います。
 伊藤博の言葉は「かつて世界中が、この国ブラジルを「コーヒー大陸」と呼んだ。そして、その大地に世界の人が認めるもっとも誠実な働き手、日本人が挑んだ。そこに日本歴史の<分身>があったことを忘れてはならない」で始まる。
(1)ブラジルの国土の簡単な紹介
 コーヒーの主要産地の気候と土壌(テーラ・ロシャ)がコーヒー栽培に適している。
(2)コーヒー栽培の発展の歴史。
  「十九世紀に始まったコーヒーの生産は、海岸からテーラ・ロシャの内陸部へ移動するに伴い、道路と鉄道の整備を促進させ、ブラジルの工業発展に好結果をもたらした。余勢を駆ってコーヒーは今世紀初頭、世界総生産量の実に70%、1929年の恐慌に至るまでは、ブラジル輸出総額の4分の3という輝かしい実績を残している。(伊藤博)」
(3)移民について
 「コーヒー生産を大きく支えたのは、各国からの集団移民である。(伊藤博)」
 日本は1908年(明治41年)で、スイス(1819年)、ドイツ(1824年)、イタリア(1836年)に続いて4番目。
(4)日系移民の先駆となった笠戸丸の第一回農業契約移民団は781名
 「彼らは遠い南米大陸に新天地を求めて、コロノ(農園労働者)として移住し、当然コーヒー作りが生活の糧であった。(伊藤博)」
 「考えてみれば、日本における農村不況のため、まとまった資力もなく恵まれない生活を送っていた人々が「棄民」の無念さを胸に秘め、何年か後には故郷に錦をと誓い、勇躍海外雄飛に挑んだのだ。(伊藤博)」
(5)コロノ制度について:コロノ制度には一農年の契約期間として除草、小立て、山立て、収穫、山くずしという一連の作業が義務づけられていた。「除草」はエンシャーダという農具(一種の鍬)を用い、広い農場の延延と続く樹間を縫いながら雑草を除く。「小立て」と呼ばれるのは収穫準備のためにコーヒーの木の根元の清掃作業。「山立て」とは、収穫期に近づくとコーヒーの樹木周辺の枝、落葉、土などを樹間にかき集め、山を作る作業をいう。「収穫」はコーヒーの実を摘み取る作業で、「棒を使わず手で実を摘み取れ」と命ぜられた。採集した実は、ぺネイラと呼ぶ円い大きなざる入れ、空中高くほうり上げ、風の力で枝、葉、小石などを取り除く。収穫作業の賃金はおよそ全生産費の13%程度と算定している。「山くずし」は収穫後の、山立てした土、枝、葉などを畑の全面に平らにならす作業。
(6)コロノ請負制度について:
  4年契約(歩合作):農園主から住居の提供を受け、植え付けを終えた苗の時期から4年間の栽培管理一切を担当する。
 6年契約:原始林の開拓・開墾の作業(山伐り、山焼き、開墾整地)から栽培(コーヒーの植え付け、除草、手入れ、施肥)そして収穫に至るまでの請負作業。「「山伐り」とよばれるトランサ(ノコギリ)やマッシャード(斧)を使う伐採作業
(7)日本政府の全移民奨励策
  1925年(大正14年)に船賃200円、移民会社の手数料35円を負担史、32年には渡伯準備金50円を支給した。その結果、33年には24000有余人を導入し、日本人がブラジル全移民の50%を上回った(伊藤博)。
(8)ナショナリズム政策
 1930年代後半からのナショナリズム政策、そのあおり受けて対外国人規制、外国人団体取締法、日本語学校閉鎖と日本語の使用禁止、新聞検閲などが厳しさを増し、情報の疎外が<勝ち組><負け組>に象徴される日系人同士の対立闘争にも発展した(伊藤博)。
(9)伊藤博は次の言葉で結んでいる。「いまや、日系人はブラジルに同化し、大きな信頼と尊敬を集め、ブラジルの発展に寄与し、日本人としての誇りと勤勉さを世界に示した。日系人による「ブラジル移民史」は後世に語りつぐべき貴重な「歴史的遺産」と言っても過言ではないであろう。
(10)移民の父と慕われた上塚周平の句
   夕ざれや 樹かげに泣いて 珈琲もぎ

 小生は伊藤博の「日系ブラジル移民史」を読んで、日本人とブラジル人の交流はこのような歴史がバックボーンはなっていることをあらためて強く感じた。(2008.7.28.)
   
参考文献:「日系ブラジル移民史」伊藤博著コーヒー博物誌(P220〜226)八坂書房

2008.7.2.
[36]ブラジル移民100周年についてその3
6月にはブラジル移民100周年にかんするたくさんの新聞記事やNHKの報道番組がありました。しかし残念ながら「オブリガーダ笠戸丸」の歌の放送はありませんでした。
 朝日新聞(2008年6月19日)には「ブラジル移民にささげる歌」という記事が掲載されていました。横浜市の歌手・井上祐見がサントス港の記念式典でブラジル移民にささげる歌「オブリガーダ笠戸丸」を歌ったというものです。日本でもこの歌を是非歌っていただきたいたいものです。
 また朝日新聞には笠戸丸生存者の名刻む公園の開園式皇太子さま出席という記事もありました。素晴らしいことです。
 500円記念コイン「日伯交流年・移住百年」が先日発売された。記念に一つ購入しました。片側には笠戸丸の船の絵とブラジルの地図が描かれている。すこしごちゃごちゃした感じ。他方の側には植物の絵。種類は?ですね。すこし物足りない記念コインですが、記念になるコインです。

2008.4.30
[35]ブラジル移民100周年についてその2
「ブラジル移住100周年・開拓の歴史74枚」という記事が朝日新聞(2008年3月14日)に掲載。この写真展を4月1日に見に行きました。テーマは「われら新世界に参加す」でした。写真だけでなく、当時の渡航案内やポスターそして移民の七つ道具、現地で使用した生活用品・農機具などが展示されていた。人間の適応能力のすごさと、よくあの程度の器具で原野を開拓できたものだと驚きました。また、ブラジルへの移住の特徴はその多くが家族移住者で、なんと全体の94%を占めていた。これがブラジルの移住が大成功した秘訣ではないかと私は思った。また、2世・3世との相互交流の必要性も感じました。

2008.2.12
[34]ブラジル移民100周年について
  今年はブラジル移民100周年の年ですが、新聞やテレビであまり紹介されていません。日本の移民の方々をもっと紹介しても良いのではと思っている今日この頃です。小生が知り得たことはわずかですが、ブラジル移民100周年に関係する記事などをすこし紹介したいと思います。
1.ブラジル日系移民100周年記念コーヒー「ブラジル・セラード・マルコス・ミヤキ」がセラード・コーヒーから2007年5月に発売。
2.コーヒー文化学会でブラジル移民100周年記念講演会が昨年12月に開催。
(コーヒー文化学会ニュース参照)
3.畔柳 潤氏が「ブラジル移民と日本のコーヒー」というエッセイを「珈琲と文化(36号?)」に発表。
4.「移民と歩んだポルトガル語辞書」という記事が朝日新聞(2007年6月18日)に掲載。
5.「移民100年でキャラクター」という記事が朝日新聞(2008年1月19日)に掲載。
6.「ブラジル移民の歴史」をマジックビーン情報に掲載
7.「ブラジル移民100周年について」をエッセイにも掲載
8.「ブラジル移住100周年・開拓の歴史74枚」という記事が朝日新聞(2008年3月14日)に掲載。
9.「新天地へそして/日本->ブラジル・移民100年」という記事が朝日新聞(2008年4月28日)に掲載。
10.「日系ブラジル移民100周年記念コーヒー第2弾「ブラジル・セラード・カンタトーバ農園・ミツオ・ナカオ」がセラード・コーヒーから2008年4月に発売。
11.「ブラジルに行くか帰るか」という記事が朝日新聞(2008年6月16日)に掲載。
12.「ブラジル移民にささげる歌」という記事が朝日新聞(2008年6月19日)に掲載。
横浜市の歌手・井上祐見がサントス港の記念式典でブラジル移民にささげる歌「オブリガーダ笠戸丸」を歌った。日本でもこの歌を聴きたいものです。
13.500円記念コイン「日伯交流年・移住百年」が発売された。片側の船の絵は笠戸丸ですが、他方の側の植物の絵は?ですね。
なお、ブラジル移民および100周年に関する情報を教えていただければ幸いです。(2008.7.2.更新)

2007.9.12
[33]味を描くということ

 先日、画家の窪田先生と話しをしていたところ、絵を描くという話になり、「絵を描く」ということを通常は「形を描くこと」と捉えられていますが、「形の本質は輪郭にあり、輪郭を描くことが形を描くことです」ということと、「輪郭と輪郭の間の空間を描くことです」と説明されました。私は「絵を描く」ということが、「形の輪郭を描く」ことで「空間を描く」ということであるということを知り、絵の本質が少し分かったような気がしました。

 その話から、私はテレビドラマの宮廷料理人「チャングムの誓い」で出てきた「料理は味を描くこと」という言葉を思い出しました。「料理は味を描くこと」を別の言い方で表現すると、「料理は素材を使って味を見える形に創り上げ、お皿の上に盛り付けること」であると思います。絵はキャンパスに描きますが、料理はお皿に味を描くことではないでしょうか?

 「味を描く」ということは、「絵を描く」ということと同じように考えれば、「味の形を描く」ことであり、「味の輪郭を描く」ことであり、「味の輪郭と空間を描く」ことであると思います。「味の輪郭は味の基本要素」で、「味の空間は味の奥行きあるいは余韻」であると考えています。味について深くて考えていくと、「味の輪郭」という概念が重要であるという結論に到りました。

以上のことはコーヒーについても当てはまると考えています。コーヒーを味わうということはコーヒーを構成する各要素の「味の輪郭」と「空間」を識別することではないかと思います。また焙煎の仕事、ブレンドの仕事、抽出の仕事は「味を描く」仕事であり、「味の形を描く」仕事であり、「味の輪郭を描く」仕事であると考えています。以上。

参考:「味」という言葉
 広辞苑(第二版)によると、「味」の意味には「飲食物が舌の味覚神経に触れた時におこる感覚」、「体験によって知った感じ」、「かみしめて知るような物事のおもむき」、「一風かわっていて、気のきいていること(おつ)」、手ぎわのよいこと、「相場の動きぐあい」の六つがある。「味を描く」の「味」は狭い意味としては「飲食物が舌の味覚神経に触れた時におこる感覚」であり、また、広い意味では「おもむきのある味」や「おつな味」という内容も含んでいると捉えるのが良いと思います。

(2007.9.10.キングスコーヒー 衛藤正徳(記)(2007.9.17.加筆修正))


2007.7.12
[32]コーヒーと私
私はキングスコーヒーの店主の衛藤正徳です。キングスコーヒーとともにコーヒードリンクやコーヒー豆の仕事は20年になる。趣味や勉強の期間を含めるとコーヒー歴は50年以上である。 私にとって珈琲は人生の道づれのようなもので、珈琲は常に私のそばにあった。オギャーと生まれたときから香りを嗅ぎ、物心ついたときには飲んでいた。父・六蔵が珈琲屋なのだから当たり前といえば当たり前なのだが・・・。

小さいころの記憶にパーコレータでたてたコーヒーから良い香りが流れている風景がある。小学生時代から父がコーヒーの試作とか実験や発明をしていた姿が浮かんでくる。このような父の研究・発明は亡くなる直前まで続いていた。大学生時代にはその手伝いをさせられたが、いま財産になっている。また、大学生時代には父・六蔵がコーヒーショップ「パウリスタ」を経営していたので、手伝いによく借り出された。最後のころには父の代理もしていた。そのころ、私は大学の研究室でろ過の研究をしていたが、ろ過実験と称してコーヒーをドリップでいれて、よく飲んだものだ。

会社員時代は「水・水処理」にかんする仕事に従事していた。コーヒーとは直接関係はなかったが、コーヒー液のもう一つの主役を研究したことは、今大いに役に立っている。20年位会社勤めをしたが、コーヒーへの興味がどんどん強くなり、1987年(昭和62年)にキングスコーヒーを設立して独立した。このようにして私は父・六蔵と同じ珈琲屋になった。
 

最初はコーヒーの立ち飲みカフェからはじめたが、コーヒー豆の焙煎の必要性を感じ、焙煎を行なうようになった。現在では小さいロースターとしてコーヒー豆の販売を中心におこなっている。最近ではコーヒーの研究の必要性を痛感している。これからはコーヒーの研究に力を入れるとともに、コーヒー文化学会の理事として、コーヒーの普及と発展のために力を尽くしたいと考えています。
                               店主(2006年9月13日記、2007年7月11日加筆・修正)

2007.7.11
[31]コーヒーの原点
  誰にでもコーヒーに興味を抱くきっかけになる原点があるとおもいます。私にとってはやはり父の衛藤六蔵がコーヒーの原点です。衛藤六蔵は25歳のときにブラジルにわたり、1931年(昭和6年)にブラジル政府公認のコーヒー格付鑑定士の資格を授与された人物。珈琲についての話はいたって簡単でポイントだけを話すというふうでしたが、その一言には重みがありました。たとえば、珈琲の味は「後味の良さが一番」と語り、実際、六蔵がいれたブラジル式コーヒーはその真髄を捉え、香り高く濃厚で後味がよく、誰もが魅了されました。私にはその味が刷り込まれていますが、まだこの味を完全には再現するにいたっていません。もっと研究して美味しいコーヒー作りに努力しなければと思っています。
  コーヒーの知識はややもすると独断になりやすい。「オール・アバウト・コーヒー」という本はコーヒーの知識の原点となる本だと思います。客観的かつ科学的にコーヒーの知識を集大成したコーヒーの百科事典とも言うべきものです。自分の知識を客観化し、整理するのに良い本です。私もきちんとしたデータにもとづいた情報を皆様に提供したいと思っています。少しでも「オール・アバウト・コーヒー」の知識に近づき、そして超えるようにと努力していきたいと思っています。
 さらにコーヒーの原点を突き詰めて考えていくと、美味しいコーヒーを楽しむことにあるように思います。自分で見て、選んで、入れて、味わうところにコーヒーの楽しさの醍醐味があるのではないでしょうか?このホームページがコーヒーの楽しさや醍醐味を味わいたい方のお役にたてれば幸いに思います。                                     店主(2006年9月6日記、2007年7月11日加筆・修正)

2007.5.28

[30]豊後の竹田を4月に訪れて
 4月17日〜19日に墓参のため、妻と娘と私の3人で大分県竹田市を訪れた。17日は恵良春のお墓に行き掃除(草取り)。みぞれ模様の寒い一日。雨の中の草取りになりました。。暑いよりは良かったように思いますが、ちょっとてこずりました。終わった後は清清しい感じになりました。この後、宿の近くにある竹田温泉「花水月」で湯につかり、一竹で名物の頭料理を堪能した。美味しいと思い、尋ねたら、運よく当日新しいニベ(魚)が入荷したとのことでした。パンフレットによると、「頭料理」は中川久清候治政の頃(1615〜1681)に由来すると伝えられ、隣国臼杵藩から馬で運ばれてくる貴重な魚介類を余すところなく利用しようという生活の知恵から生み出されたもので、材料にはニベ・アラ・クエなどの白身の大型魚を用い、一般には捨てる頭や内臓などのあらゆる部分を湯引きして食べる料理です。頭料理の美味しさの秘訣は湯引きの技術にあるようです。美味しさを引き立てるのはやはり「かぼす」が一番だと思いました。

18日は午前中は知人への挨拶や親類の墓めぐり。午後はお寺(万徳寺)でお経をあげていただいた。満徳寺は竹田地方最大のお寺で、最初は荻町(馬場村)に1470年(文明2年)に創建され、現在の地には1702年〈元禄15年)移転し再建されたと「竹田の寺」(竹田の寺作成委員会編)の中に記載されている。。満徳寺と衛藤家との係わり合いは衛藤信隆(僧名円信1703年没)から始まったようです。夕方、阿南さんご夫妻のご招待をうけた。竹の子づくしの旬の料理と手巻き寿司をご馳走になった。掘り立ての竹の子で甘みがありました。私たちにはまねの出来ない心のこもったおもてなしを受けました。話も弾み、一期一会を楽しみました。

19日は竹田の街をぶらり。まず、歴史資料館を見学。田能村竹田が春蘭を描いた硯箱に感激。祖父や加藤八千代叔母様が好んで春蘭を描いていた理由がわかりました。さらに広瀬神社の方へ。広瀬神社の階段の入り口付近の小さい広場に新しい広瀬中佐の胸像ができており、きれいなトイレも新設されていた。竹田の街が少しだが変わりつつあるのを実感しました。また、変わらない竹田の味「はらふと」も健在でした。
午後は従兄弟と会うために、別府へ。別府では従兄弟のいきつけの小料理屋さん「小菊」で会食。風情のあるお店で、竹の子などの料理も家庭の味とはことなるプロの味でした。

20日は従兄弟の案内で別府公園を散策そして帰京。別府公園は元占領軍のキャンプ地だったところを,返還後に市が整備して公園にしたところ。日本の庭園と欧米の公園をブレンドしたような公園で、近くの山を背景に取り込み、大きな木が自然の状態でバランスよく存在し、サッカーができそうな広々とした芝生や花壇もあり、よく整備された素晴らしい公園でした。最後にコーヒーの話題を一つ。お礼に、持参したコーヒーと竹田で買い求めた竹田のの水でドリップ抽出して従兄弟達に飲んでもらいましたが、なかなかの味と思ってもらえたようでした。

広瀬武夫中佐像
大分県竹田市にて

2007.4.25

[29]奥山義人先生が復刻した初代歌川広重の東海道五十三次版画展を見て
 3月6日に奥山義人先生が復刻した初代歌川広重の東海道53次版画展を見に行きました。奥山義人先生は珈琲版画でも知られている方です。私は版画展を見て、まず本物の持つ迫力に圧倒されました。木に描いた日本画だと思いました。色彩的には少し淡い色のようでいて、あざやかさがあり、とくに黄色と青色が印象的でした。構図は緻密で、繊細でかつ大胆であると思います。それに加えて、動きのある情景やユーモアのある人物が表現されていて、とにかくすごい作品だと思いました。木版画は彫りと刷りから成り立っているという奥山先生の説明やお話をお聞きしたり、刷り師の実演をみたりして、日本の木版画の技術の高さと魅力と楽しさを味わいました。
 同時に現在の現地の写真も展示されていて、これは素晴らしいアイデアだと思いました。過去と現在を対比すると、多くの場所で広重の頃の情景を壊していて、「整合性に欠けている開発が行なわれている」と強く感じました。広重の絵と同じ風景が残っているところは広重風景という形で残していく必要があると思います。これからの開発は歴史を踏まえ、総合的に将来の財産となるものを創り出すことが求められているのではないでしょうか!
(衛藤正徳 記)

2007.2.20

[28]石川県金沢を訪ねて
2月9日〜10日に金沢大学大学院特任教授で、コーヒー文化学会副会長の広瀬先生にお会いするために石川県の金沢を訪れました。大学と研究室を見学したり、コーヒーについていろいろな話をしたり、広瀬先生の公開講座・コーヒー学入門を聴講しました。この話しは道場に書きますのでそちらをご覧下さい。ここではぶらぶら歩いた金沢の街やお店の印象を書こうと思います。

9日に金沢駅について表にでると、あまり寒くなく、雪もなく、雨まじりの曇天で驚きました。雪の金沢を見ることが出来ませんでした。金沢の街を散策しようと道をゆっくりあるいて、東茶屋街あたりに行きました。なかなか感じの良いお佃煮屋さんがありましたので、最初に立ち寄ってみました。佃煮はくるみを使った珍しいものがあり、お土産にしました。またくるみを使ったお菓子もありました。最中の皮の中にくるみとキャラメルと絡めたものが入っているお菓子(名前忘れました)で、味わいが上品で深く、私の初めて出会ったものでした。お茶だけでなく、コーヒーにも合うお菓子だと思いました。さすがは金沢の佃煮とお菓子ですね。
(続き)
この後、あすなろ細工「かみや」という面白い木彫りのお店を尋ねました。「かみや」にはあすなろの木に彫ったふくろうやだるまさんがところ狭しと飾られていました。独創的な作品に引き付けられ、それらをゆっくりみていると,奥からご主人の「かみや」さんが出てこられて、自分の作品や木彫りに対する考え方ついて説明してくれました。一つ一つゆっくり丁寧に時間をかけて彫っていることがわかりました。私は一対のふくろうを買い求め、この一対のふくろうはアメリカいる娘夫婦にプレゼントしました。その後、輪島塗のお店を尋ね、輪島塗の箸を買い求めました。これは下の娘にプレゼントしました。この後、再び、木彫りを見たくなって、「かみや」に戻りました。こんどは奥さんが出てこられました。立ち話をして、だるまさんを買い求めようとしたら、そのだるまさんをプレゼントされました。ご好意に甘えて頂いてきました。「かみや」の木彫りには心があるうように感じています。。日本人の感性によって生み出された素晴らしい芸術作品だ思います。このだるまさんは私の宝物として大切にしたいと思っています。


だるまさん

ふくろう

2007.1.13

[27]窪田真規個展を見て
   −鏡の時間時間の死死の時間あなたとあなた-
1月13日に窪田真規先生の個展をみにいきました。部屋のいたるところに作品が置かれていました。
最初はよくわかりませんでした。なんとなく離れ難く作品を見つめていたら、「ふ」と次の言葉が浮かんできました。この作品は「不規則性と規則性の融合」そして「有限性から無限性へのひろがり」のように感じて、先生にお話ししまたら、先生は「整合性」をテーマに「螺旋(渦巻き)の集合体で一つづつは違っていても全体として統一性をあらわした作品だと言っておられました。(衛藤正徳 記)

2006.9.2

[26]ドイツワールドカップサッカー観戦その4(最終回)

ドイツVSスウェーデン(6月24日)と
ポルトガル
VSオランダ (6月25日)

22日の日本Vsブラジル戦が終わり、少々がっかりしたけれど、まだまだワールドカップは始まったばかり。どんな試合がみられるか楽しみと思っていましたが、実際、すごい試合の連続でした。

623日はフランクフルトへ。渡辺先輩の知人のクノールさん(ドイツに在住している)と会食。なんとこの方は同じ高校の先輩であった。家庭的なふんいきのお店でドイツの家庭料理を食べる。白ソーセージ(ヴァイスヴルスト)ともちもちした食感のジャガイモの団子と柔らかい豚のすね肉のロースト(シュバイネハクセ)の味が舌に残った。ドイツの味の代表選手というところのようだ。

624日はフランクフルトからはミュンヘンへ。ミュンヘンのアリアンツ・アリーナで行なわれる決勝トーナメントの1回戦(ドイツVSスウェーデン)を観るためである。このアリアンツ・アリーナ・サッカー場はUFOのような円形をした斬新なデザインのサッカー場である。しかも地元のドイツが出場するので人出も多い。チケットはなんとか手にはいった。ドイッチュランド、ドイッチュランドというドイツの声援がすごい。試合はそれにこたえるようにドイツが2−0で勝利。FWのクローゼとポドルスキーが活躍。とくにクローゼの相手ペナルティーエリアへの鋭い切り込みが印象に残った。スウェーデンの攻撃はいまひとつ鋭さにかけ、ドイツの堅守の前に沈黙した。

625日はニュルンベルグで決勝トーナメントの1回戦のポルトガルVSオランダがおこなわれる。試合のキックオフは午後9時でチケットはあらかじめ入手しているので、余裕がある。それまでニュルンベルグのお城見物をする。お城のまわりを歩いてまわれるようになっている。途中に箒に乗った魔女の看板があるカフェがある。緑があってよいふんいき。ここで皆で乾杯。私はというとビールの誘惑を振り切って、コーヒーとケーゼトルテ(チーズケーキ)で!コーヒーもケーキもくせがない、あっさりとした味でした。お城は最初につくられたのは13世紀ころにさかのぼるという。ところが第2次世界大戦ですべて破壊され、今のお城は壊れたレンガを拾い集めて再建したそうだ。すごい執念と努力に敬意をはらおう。

さて、ポルトガルVSオランダの試合は両チーム良く動き、激しい試合。攻守の切り替えが早く、目が釘づけになった。どちらかというとポルトガルのチェックが厳しく寄せが早いように感じた。ポルトガルはフィーゴ、ミゲル、ロナルドの動きが印象に残った。これは格闘技だと思わせる試合だった。イエローとレッドあわせて14枚のカードが出されて有名になった試合でもあった。結局、試合は1−0でポルトガルが勝った。

26日はニュルンベルグからミュンヘンへ。有名なビーアハレ(ビヤホール)の店「ホーフ・ブロイ・ハウス」で最後のアイン・プロ―ジット(乾杯)。ここでもフッスボール(サッカー)を観戦しながら。このビーア(ビール)の味も格別でした。それでは皆さんアウフ・ヴィーダーゼーエン(さよなら)。

渡辺さん、吉原さんご夫妻そしてお世話になった方に感謝・・・衛藤正徳


ジャガイモン団子と豚のすね肉のロースト

6月24日ミュンヘンのアリアンツ・アリーナ・サッカー場

森のカフェのケーキとコーヒー

6月25日ポルトガルVSオランダのキックオフ(一番手前のエンジのユニホーム7番はポルトガルのフィーゴ)

2006.8.23

[25]ドイツワールドカップサッカー観戦その3(日本VSブラジル)

618日の日本VSクロアチア(ニュルンベルグ)は引き分けに終わった。次の試合は622日の日本VSブラジルである。日本の力が再び試される。試合はドルトムントでおこなわれる。ドルトムントへはデュセルドルフから往復することになった。

22日まで時間がある。19日と20日はハイデルベルグを観光。19日にニュルンベルグからシュツッツガルトを経由してハイデルベルグへ。シュツッツガルトではスペイン・チームのバスに遭遇したものの選手には会えず。しかも昼食に行こうと思ったホテルはスペイン・チームに貸しきられて、われわれはアウトというハプニングが。

21日にハイデルベルグから日本選手の練習基地であった「ボン」を経てデュセルドルフへ。ハイデルベルクからボンへ行く列車の車窓からはライン川とブトウ畑と古城の眺めが良い。デュセルドルフでは渡辺さんの知人に日本食をご馳走になった。ドイツの日本食は本格的でどれも美味しい。とりわけしめ鯖は脂がのっていて絶品であった。ドイツの食はレベルが高いと感じた。また、たべものの味とビールの味とコーヒーの味には漠然とした言い方だが、ある種の似た感覚というか味覚があると思った。

いよいよ今日は22日。待ちに待ったブラジル戦の日だ。試合のチケットを持っていないので、パブリック・ビューで見る覚悟でドルトムントのサッカー場(シグナル・イドゥ−ナ)へ。ダフ屋さんから何とかチケットを入手。高いが致し方ない。きょうは65千人が詰め掛けた。満員だ。日本のサポーターの応援がすごい。日本は後がないという気持ちからだろう。ニッポン!ニッポン!の大合唱。クロアチア戦の時より熱気を感じる。私も一緒に声をからす。試合がはじまった。天候はクロアチア戦とは異なり曇り空で少し肌寒いくらい。ちょうどよい。前半は日本が良く動いてブラジルと好試合。圧巻は日本の先制となった玉田のゴール。決まった時には日本人は興奮のるつぼ。立ち上がり、だれかれとなく肩を抱き合った。この時にはもう1点いれれば、ひょっとして勝てるかもという気持ちが・・・しかし、前半終了間際、なんでもないと思われたボールをロナウドにヘッドで決められ、やっぱりだめかという気持ちに。後半はブラジルの好きなようにボールを回され、3点を失い、万事窮した。日本チームは前半のような動きが見られず、まったくいいところがなかった。中田英俊の動きだけが印象に残った。かくして日本はワールドカップの1次リーグで敗退した。今日はブラジルとの差を実感させられた試合だった。

蛇足だが、デュセルからドルトムントのサッカー場まではD.BUバーンを乗り継いで行く。行きも帰りもラッシュで少々大変だった。とくに帰りのドルトムント・デュセル間のD.Bは物凄いラッシュで、危うく乗りそこなうところであった。


6月20日ネッカ川から見たハイデルベルグ城

6月22日ブラジルのサポーターと試合前に

6月22日試合前のセレモニー

2006.8.13

[24]ドイツワールドカップサッカー観戦その2(日本VSクロアチア)

616日にミュンヘンに到着。きょうは簡単に夕食を済ませ、すぐホテルに。明日にそなえる
17日は午前中ミュンヘン市内を観光。市内はワールドカップ友好ムードがいっぱい。ブラジルのサポーターとエールの交換。市庁舎には有名な仕掛け人形がある。今ちょうど動いているところだ。見物人でいっぱい。近くのコーヒーショップのパラソルでコーヒータイム。カプチーノを飲む。ものすごく美味しいというわけでも、まずいというわけでもない。まずまずの味。ついでに書くと、ミュンヘンのホテルの朝食のコーヒーはなかなかの美味であった。13時のICEで、ニュルンベルグへ移動。晴天.少々暑いがさわやかだ。今度はクロアチアのサポーターと遭遇し、エールの交換。ホテルはサッカー場から歩いて15分位のところにある。その地域全体が森の公園のようになっていて、実に気持ちがよい。しかし歴史的にみるとナチス・ドイツの根城で、いまわしい出来事もたくさんあったところ。このことは今、ワールドカップの熱気によってかき消されている。夕食のためダウンタウンへ。クロアチアのサポーターが日本人より目につく。ニュルンベルグ・ソーセージにビールで乾杯。明日のクロアチア戦の勝利を願って。
きょうは
18日。クロアチア戦の当日だ。朝から気分が盛り上がっている。オカルト・ジャパンと称する元気の良い女性4人組のサポーターと記念撮影。ニュルンベルグのサッカー場「フランケン・シュタディオン」へ到着するとさらに気分が高揚してくる。気温が30度を越える暑さ。席に座っていても暑い。席は前から3列目なので、グラウンドがすぐ目の前にみえる。選手の表情・動きが良く見える。試合は前半、バーにあたるクロアチアのシュートに肝を冷やし、絶対絶命と思ったPKを川口が左に飛んでセーブしたときには勝てるとおもい、中田のシュートに勢いを感じ、後半ゴール前で絶好のパスが柳沢に通ったときにはゴールを確信したが、なんと右に逸らして万事休す。一進一退の好試合だったが結局はスコアレス・ドロー。勝てるチャンスがあったので、フラストレーションの溜まった試合であった。日本とクロアチアのサポーターと観客はサッカー場を静かに後にした。


ニュルンベルグのビアホールで乾杯

6月18日オカルト・ジャパンというサポーターと勝利を願って。

6月18日ニュルベルグ・フランケン・シュタディオンの日本チーム(試合前のセレモニー)

2006.7.22

[23]ドイツワールドカップサッカー観戦その1(ミュンヘン到着)
 運よく、2006ワールドカップサッカードイツ大会を見に行く機会に恵まれた。実は私の高校時代のサッカー部の先輩の渡辺さん(いまは少年サッカーチームの監督をしている)がドイツ大会のチケットを正規のルートで2試合各4枚ゲットし,同行者を募っていた。私は、4年前に2002ワールドカップサッカー日韓大会を韓国の水原サッカー場(ウルグアイVSセネガル戦)で観戦したことがあり、そのたとえようのない楽しいふんいきをいつかまた味わえたらと思っていた。多くの希望者がいたようだが、運よく条件にフィットしたということで私が同行者の一員になった。あとのお二人は前述の少年サッカーチームのコーチをしている吉原さんとその奥様である。このお二人も大変なサッカー好きな方である。
 観戦したのは1.日本VSクロアチア(6月18日)、2.日本VSブラジル(6月22日)、3.ドイツVSスウェーデン(6月24日)、4.ポルトガルVSオランダ(6月125日)の4試合である。それぞれ見ごたえがあった。他の試合はパブリック・ビューイングや大画面のあるレストランなどをさがして観戦。もちろんドイツビールをのみながら。
 今回は当然のことながらサッカー観戦が主で観光は従の旅で、観戦のの合間に観光という具合であった。さらにその間にドイツの料理、ビール、コーヒーを楽しんだ。あちこちの都市やサッカー場にはいくにはもっぱらDB(ドイツ鉄道)のジャーマン・レイル・パスを使用した。乗り放題で使い勝ってが良かった。ともかく素晴らしいメンバーに恵まれて、何のトラブルに巻き込まれずに、ドイツ・ワールドカップを楽しむことができた。
 前置きはこれくらいにして、次回からドイツビールやコーヒーそしてドイツ料理のことも挟みながらサーカー観戦記を書いていきたいと思っています。

6月17日ミュンヘンに到着。大通りを歩く。

2005.8.30

[16]珈琲豆袋がお買い物バッグに変身
先日、お客様のIさんが写真のバッグを肩からさげてお店に来られました。豆の袋から作ったお買い物バッグですよとのこと。豆袋は丈夫だから、お買い物バッグがいいだろうと、ご自分でデザインを考え、作ったそうです。豆袋が素敵なお買い物バッグに変身していました。豆袋はいろいろと再利用されているとおもいますが、あまりに見事だったので、皆様にご紹介する次第です。


2005.8.3

[15]名古屋万博
 6月3日に名古屋万博を見学した。午後からだったのであまり多くを見ることはできなかったが、面白さは十分味わった。お目当ては冷凍マンモス。会場についたらすぐさま冷凍マンモス館へ直行。冷凍マンモス館だけを見る人は意外と少なく、あまり待たずに見ることが出来た。さすがに本物。迫力に圧倒された。大きい牙はもちろん印象的だが、皮膚の感じとか目のくぼみや頭部に残っている毛が生生しく、目がひきつけられた。足もすごい存在感があった。冷凍マンモスは2回も見てしまった。
 あちこち見て歩いたが、あと印象に残ったのはロボットのコーナーである。以前見たモマのロボットより、さらに進化したヒューマノイド型ロボットが展示されていた。人間と簡単な会話ができるところまできている。ロボットと人間の交流をはかるロボット喫茶なるものがそのうちできるに違いない。

2005.4.15

[14]3月の豊後竹田
 3月初めに大分県の豊後竹田を訪れた。母の墓参が目的だったので、あわただしく、ゆっくり遊ぶ余裕はなかったが、それでも懐かしい知人に会い、春まだ浅い岡城址を歩き、心満たされる訪竹であった。
 入竹した日、知人のお宅に招かれ、夕食をご馳走になった。ふきのとうのつくだにには春のあじわいを感じ、豊後牛のすき焼きには濃厚な肉の美味しさ+みずみずしい野菜の美味しさを感じた。竹田式は大根をいれるのが特徴だとか。竹田の水で珈琲もわざわざ入れてだしてくれた。水の美味しさが珈琲の味をひきたてていた。そこには竹田人のもてなしのこころがあふれていた。ご夫妻はボランティアで外国人の方を受け入れ、交流を深めるのに力を尽くされている。ここに来た皆さんも同じように感じて帰られたことだろう。
 翌日、久しぶりに岡城を訪れた。好天に恵まれ、城歩きは快適であった。「国破れて山河あり、城春にして草木深し」という詩のふんいきがよく似合う城址だ。3月初めで草木は深しというほどではなく、まだ桜も咲いていないのですこし寂しく、穏やかで静かであった。城址で食べたお弁当の美味しかったこと。出かける直前に知人の奥様が突然見えて、なんとこしらえたお昼のお弁当を持たせてくれたのである。暖かな心遣いには言葉もありませんでした。
 久しぶりに来たお城は入場料が必要になっていた。さらにお城の道を歩いていくと、西の丸あたりは草ぼうぼうだったところが、きれいに整備され、はじめて見る城址が広がっていた。入場料で整備していたのだ。今のふんいきを壊さずに整備されることを願った。桜が咲き誇りにぎやかな城址を想像しながら後にした。
岡城址

2004.10.08

[13]焼き芋とコーヒー
 秋になると、食が進み、熱いコーヒーが飲みたくなる。夏にはさほど美味しいと感じられなかった同じコーヒーが美味しく感じられるから不思議だ。これはあまり飲みたくないと思っている時に飲むか、飲みたいと思っている時に飲むかの違いが大きな原因だろう。食べ物も夏はあっさり系を食べたいし、秋にはこってり系というか旨み系を食べたくなる。秋の食べ物で最初に浮かぶのはなぜか焼き芋だ。子供のころの郷愁からかもしれない。焼き芋は焚き火で焼いた焼きたてをふうふういいながら食べるのがうまい。最近は焚き火もままならないが。焼き芋は少し苦味のあるコーヒーがよく合う。サツマ芋の甘みがコーヒーの苦味と合うのだ。サツマ芋からつくる焼き菓子のスイートポテトとコーヒーもよく合う組み合わせである。焚き火をしながら、焼いた芋を食い、コーヒーを飲めば気分はカントリーだ。しゃれたカフェでスイートポテトを食べ、コーヒーを飲めば気分はシティだ。

2004.7.22


[12]ケベックのコーヒー
 結婚29周年を記念して、6月はじめにカナダ旅行をした。 ケベックは城壁に囲まれた、フランスのふんいきを感じさせる美しい、魅力にあふれた街であった。言葉はフランス語が主で英語が従である。
 なにげなく入ったカフェはおしゃれで、クレープが売り物。飾りつけも味もgood.。コーヒーはクレープにぴったりでなかなか美味しかった。店頭に小型焙煎機を置いて、焙煎しているコーヒーショップもあった。ここのコーヒーはさすがにフレッシュな味であった。夕食ではいったケベック料理の店は素朴であるが、料理が美味しく、コーヒーも料理とバランスが大変よかった。
 ケベックのコーヒーの印象をまとめると、グルメコーヒーというような特別なコーヒーではないけれど、かなりグレードの高いコーヒーであった。
 蛇足ながら、6月にキングスコーヒーの衛藤正徳が日本コーヒー文化学会の理事に就任しました。コーヒー文化学会についてお知りになりたい方は衛藤までお気軽にお問い合わせください。

2004.5.1


[11]伊藤 博先生の思い出
 日本コーヒー文化学会ニュース第32号をみて、伊藤先生が1月3日に永眠されたことを知った。伊藤先生の著書は本屋でよく見慣れていたが、実際にお目にかかったのは日本コーヒー文化学会の記念集会の時であった。ここには自由で真摯な空気がながれていた。これは副会長である伊藤先生の人柄と無縁ではないと思う。伊藤先生とは軽いご挨拶をかわす程度であったが、あふれるやさしさの中にリンとした威厳と意思の強さを感じていた。あまり深くお話をする機会がなく、今日にいたったのが残念である。伊藤 博先生のご冥福を心からお祈りいたします。 

2004.1.22


[10]コーヒーの記憶
 昨年の12月に、松屋珈琲の社長で、コーヒー文化学会の副会長である畔柳 潤氏から「Mein spur (Kaffee
und ski)」という自伝の本をいただいた。コーヒーの話、ご家族の話、子供のころの話、スキーの話、先祖の話などが簡潔に、率直に語られていた。畔柳 潤氏の生き様と信条がストレートに伝わって来た。写真をみているだけでも楽しい本である。とにかく、ユニークな自伝の本である。香りが良く、切れ味の良いコーヒーを飲むような本である。
 私はこの本を読んで、私の子供のころのコーヒーの記憶を思い出した。我が家の朝食はパンとコーヒーに決まっていて、必ずモーニングコーヒーを飲んでいた。私が小学生くらいまではコーヒーを毎日飲む家はまだまだ少なかった。私も子供の時から当然のようにコーヒーを飲んでいた。どういうわけか、私の記憶の中に浮かぶのはパーコレータで作られているコーヒーである。それもコーヒーがパーコーレータの中で循環し、コーヒーの香りを発散している姿がある。パーコレータには父らしい工夫があった。コーヒーを入れるろ過筒をネルの布で包み、コーヒーの粉が漏れるのを防止していた。また、コーヒーはというと仕事場でお客さまには出せない、残り物を集めて持ち帰り自家用にしていたように記憶している。カリタのドリッパーが登場すると、我が家のコーヒーメーカーはパーコレータからカリタのドリッパーへと変わっていった。私の子供のころのコーヒーの記憶の1こまである。

2003.3.3


[9]ケーキとコーヒー

ケーキにコーヒーや紅茶はつきものですが、「このケーキはこんなコーヒーを飲みながら食べたいな」と思うことはありませんか?キングスコーヒーのスタッフのミスR.O.はケーキとコーヒーの相性について次のように考えました。あなたはケーキとコーヒーの関係をどうお考えですか。

◇ショート・ケーキ
子供の頃の幸せの1つはこのケーキを食べることでした。ケーキを買うときに、今では種類があり過ぎて、「次にしよっかなぁ〜」と思うのですが、やっぱり買ってしまうのがこのショートケーキです。スポンジと生クリームの組み合わせは美味しいですよね。小さい頃は一口ケーキ、また一口ケーキ!ケーキだけで飲み物はいらなかったのですが、今は一口ケーキの次にコーヒー、また一口ケーキの次にコーヒー・・・でいただきたい!こういうふんわりやさしいケーキには苦みと酸味がしっかりとしているバランスのとれたコーヒーを飲みたいですね。キングス・エクセレントブレンドやスペシャルブレンドがぴったりです。

◇チーズ・ケーキ
チーズ・ケーキはベイクド、スフレなどいろいろとあるので迷うのですが、クリーム・チーズ・ケーキなら、濃厚な美味しいチーズの風味を楽しみながら、コーヒーで口の中をさっぱりしたいということがよくあります。苦みのあるコーヒーがいいですね。キングス・ゴールデンブレンドとかロイヤルブレンドが最高です。

◇アップルパイ
何といってもりんごのジューシーさにシナモンが美味しいケーキですね。果物でありながらサクサクした皮があるという感じです。しかしそのサクサクがガサガサと喉にひっかかったり、油っこく感じるときがあります。そんな時にはりんごのジューシーさとパイというお菓子の軽さを損なわない、苦みも酸味もほどほどの軽いコーヒーがいいですね。ブルーマウンテンブレンドとかクリスタルがおすすめです。

2003.2.8

[8]古い写真・古い資料

最近、お二人の方から貴重な写真と資料をいただき
感謝している。同時に「温故知新」という言葉をかみしめている。

古い写真というのは、1929年(昭和4年)にブラジル
で撮った衛藤六蔵の写真(右上)である。この写真は衛藤六蔵が自分の姉(加藤 八千代)にあげたもので、いままで私のいとこが大切に保管していたものである。
衛藤六蔵は1928年(昭和3年)に渡伯し、1929年にサンパウロ日本総領事館の推薦を受けて、サントス
珈琲取引所内珈琲鑑定室に研究生として入所して
いる。これは入所のための珈琲省訪問と思われる。

古い資料というのは、1934年(昭和9年)のTea&珈琲の5月号に書いた「ブラジル珈琲の話」(ブジル珈琲格付員 衛藤六蔵著)である。この資料は松屋珈琲の代表取締役をされている畔柳氏がわざわざ見つけて送ってくださったものである。衛藤六蔵は1931年(昭和6年)にブジル珈琲格付員(珈琲鑑定士)の資格を取得した後、1933年(昭和8年)に帰国し、ブラジル珈琲宣伝本部に技術担当として勤務していている。その時に書かれたもので、当時のブラジル珈琲事情が描かれている。

ブラジル国珈琲省にて(リオ新聞社班撮影)
 向って右より
川西 サンパウロ領事
三浦 リオデジャネイロ日本大使館官補
珈琲鑑定官 ルイ氏
衛藤 六蔵
珈琲技術長官 カマルゴ氏
ビクトリヤ国立珈琲検査所長
           1929年 珈琲訪問記念

2001.6.15
[7]OLの一人言

 OL生活もそこそこ長くなると、仕事もそこそここなせるようになり、会社に対する距離感もほぼ確定されつつある。
 週5日働いて、2日休むという生活サイクルにもすっかりなれ、いわゆる「普通のOL」というカテゴリーに自分もちゃんとあてはまっている。
それ以上の感情の幅がのぞめない生活の中で、仕事をしながら浮かんでは消える心の想いに一人で対峙するしかない。
過ぎて行く時間に身を委ねることしかできないが、それでも最近小さな「自分発見」をした。
 それは、会社の中で大切にしている一人のTea Time を私は紅茶とコーヒーを使い分けて、微妙にその日の心のバランスをはかっていることだ、。
今日はどうしてもがんばらなきゃ、と気持ちを強くもちたいときはコーヒーを、今日なんだか疲れちゃったナーと少し自分をいたわりたいときは紅茶を飲むのである。ささいなことなのに、意外に効果が大きい。
 一人で自分を奮い立たせることを覚えた私は、前より少し大人になったのかもしれない。人にももっと優しくなれそうな気がする。そうであれば、いいなと思う。
                                    by ピーコ
( OLのピーコさん 寄稿ありがとうございます。)

2001.5.14
[6]MOMA
◇3月に、28年前にメキシコで知り合いになったアメリカのご夫妻に
お会いするため、アメリカのワシントンD.C.を訪れた。その帰りにニュー
ヨークへ立ち寄り、ニューヨークの街を歩き、MOMA(近代美術館)を
見学しました。
◇ニューヨークの街は安全になったと聞いていたが、地下鉄に乗り、
街を歩き、カフェやデりを見て歩きましたが、本当に安心して、楽しく
歩くことができました。
◇MOMAのワークススフィアーズで、あの宇多田ひかるの歌の画面に
登場するピノキオに似たロボットを見学しました。すごくかわいらしい
ロボットで、鉄腕アトムにもなんとなく似ているとおもいました。箱に入
って飾られていただけで、実演が行われていなかったのがちょっと
残念でした。
◇MOMAを見学しようとおもったのは、このロボットが展示されている
と聞いていたからです。このロボットは日本の科学技術振興事業団の
北野共生プロジェクトが開発したもので、デザインは松井さんという方
です。松井さんとは知り合いの知り合いのその又知り合いという当事
者同士は知らないという関係なのですが・・・。
なんとここで中川さんという開発者のお一人にお会いするという偶然
にであいました。だから人生は楽しい。中川さんによると、「このロボ
ットは人間との共生をめざしたはじめての二足歩行ロボットなので、
本当は皆さんに手でふれてもらいたかったのですが、MOMAの都合
でできなくて残念でした。」ということでした。
◇最後にこんなことを感じました。ロボットは確実に人間らしくなろう
としていますが、さて人間自体はどうなのだろうか。そして人間と
ロボットはカフェでコーヒーを楽しむようになるのだろうかと・・・。

MOMAに展示された北野共生プロジェクトの二足歩行ロボット
(2001年3月15日)

2001.3.21
[5]コーヒーの玉
◇キングスコーヒーのファンの一人であるK.J.さんから、こんなお便りをいただきました。「コーヒーを入れる時、そっとやるとコーヒーの玉が水銀のように表面をそっと走るんですよ!知ってました!最近、はまっているんです。」
◇そう言われて、K.J.さんが言うようなコーヒーの玉現象があるのを思いだした。K.J.さんの観察力と感受性の高さに脱帽である。ドリップ法でコーヒーを入れるとき、良く注意して見ているのは上のロトの粉のところである。泡の状態とか、液面の下がり具合とか・・・。しかし、下のサーバーに落ちて来るコーヒー液は見ていない
わけではないが、あまり注意して見ていない。だから、見ていてもK.J.さんのように見えていなかった。
◇実際に試してみると、ほんとうに美しい。ブラックパールのようなコーヒーの玉が液面を走り、やがて中に消えていく様は実にファンタジックで、音楽を聴いているようである。コーヒーは香りと味を楽しむ以外にも、こんな楽しみもあるのだということを教えていただきました。ありがとう。百聞は一見にしかず、一度観察してみて
ください。(K.J.さん 寄稿ありがとうございます。)

2001.2.19

[4]アメリカのサンディエゴで美味しいアメリカンに出合った!

◇アメリカのサンディエゴで美味しいアメリカンに出会った。サンディエゴはメキシコ国境に近い、カリフォルニア州に属する海のリゾートである。暖かい。日本の4月くらいの陽気だ。空は抜けるように青い。港には夏の季節を待ちこがれている白いクルーザーが所狭しとひしめいている。海の水はと見ると、きれいだ。水鳥がのんびりと遊んでいる。極楽鳥という花が雑草のように咲いている。思わずほっとして楽しくなる景色である。
◇海を見ながら朝食をと思い、シーポートビレッジのEdgewaterというお店でカントリーブレックファストとコーヒーを注文した。出てきたコーヒーをひとくち飲み、うれしくなった。美味しいアメリカンだったからだ。いまアメリカのコーヒーは、スターバックスに代表されるように、エスプレッソのような深煎りのコーヒーへとシフトしている。美味しいエスプレッソには出会うのだが、美味しいアメリカンにはなかなか出合えない。アメリカで美味しいアメリカンを飲むのはできないのかと思っていたから、このサンディエゴで出会った素晴らしいアメリカンには感激してしまった。このアメリカンはミディアムローストで、酸味がほどよく効いていて、軽いけれどしっかりとした味わいのコーヒーであった。ブレックファストも美味しく、コーヒーと良く合っていた。とくにポテトはなかなかであった。サンディエゴでは海を眺めながらを美味しいアメリカン飲むのが合っている。
ダナイン&マリーナの港(2001年1月)
◇ついでながら、サンディエゴにはオールドタウンとシーポートビレッジというテーマパークがある。比較的年配の人がのんびりとホリディを楽しnでいる。機会があったら行かれると楽しいと思う。オールドタウンのメキシコ料理や、シーポートビレッジのブレックファストとシーフードも美味しいのでおすすめだ。それ以上にサンディエゴの美味しいアメリカンはおすすめだ。美しい海を眺めながら、飲むこのアメリカンの味は格別。ちなみに、一杯1.75$でした。

2001.1.10
[3]コーヒーと食文化の行方

◇あけましておめでとうございます。昨年の9月13日の朝日新聞の夕刊に「料理と食で問う人類二千年」 歴史学者マッシモ・モンタナーリ氏(ボローニャ大学)に聞くという記事があった。ご存知の方もいらっしゃると思う。その中で、私はモンタナーリ氏の次の話にとくに興味をひかれた。
「人間は古い時代から飢餓に苦しめられ続けてきたので、中世から近代になっても、太っていることが良いことで、見た目にも美しいとされてきた。それが二十世紀の後半になって、先進国では恵まれた階層の人々がわざと質素な食事を求めたり、やせた女性を理想化したりすることが流行し始めた。これは二千年の人間の食の歴史の中でも劇的な変化かもしれない。実際には太りすぎではない人々までが肥満の恐怖と闘っています。その現象が次の時代の食文化をどう変えていくのか、いま注目しているところです。」
◇なるほどと納得させられる意見であった。いま私達はコーヒーをノンアルコールの美味しい自然飲料として、ごく当たり前に日常的に飲んでいる。ところで、コーヒーはどういう飲み方をされてきたのだろうか。。コーヒーは1300年ころに回教徒が飲み始めたとされている。当時は薬として飲まれたようである。いま薬として飲まれているかというと、薬として飲んでいるという人はまず少ないだろう。少し前までは健康に良くない飲み物という説が幅をきかせていたくらいである。薬であるかどうかは別にして、貴重な飲み物として大切にとりあつかわれてきたことは事実である。コーヒー発祥の地・エチオピアではコーヒーセレモニーという習慣があり、大事なお客様のおもてなしをする。しかしコーヒーがこれだけひろまったのはヨーロッパの国々のお陰だろう。コーヒーがヨーロッパの料理(いわゆる西洋料理)と良く合う、飲み物だったからだと思う。日本では昭和30年代ころまでは特別な飲み物だった。日本でコーヒーが一般に普及し始めたのは、日本の食文化が洋風化し始めた昭和40年代とされている。
◇コーヒーや紅茶の飲まれ方も食文化の一部であるから、コーヒーや紅茶の今後の行方は食文化と切り離しては考えられない。健康やダイエットを志向した食の流れがますます大きくなるとすると、コーヒーは「美味しいから飲む時代」から「健康に良いから飲む時代」あるいは「ダイエットによいから飲む時代」になることを示唆しているのかもしれない。コーヒーの薬効が最近いろいろと明らかになりつつある。私は21世紀はコーヒーと健康やダイエットを志向した料理の関係に注目していきたいと考えている。

2000.10.27

[2]バンコックコーヒー事情

 味覚音痴,と言うほどではありませんが「違いがわからぬ男」を自称している私 が,コーヒーの話をこう言う場でするのは何とも身の程知らずなことですが,せっ かく古い友人の衛藤さんから機会を頂いたので,過去3年ほどの間に3回通算7ケ月 あまり滞在したバンコックでの印象を簡単にご紹介します.
 パーク(口が)・ワ−ン(甘い)と言う言葉は,とくにタイの男性が女性に対して 口がうまいことを言っていますが,それかあらぬか,タイの人はコーヒーもひどく甘 いことが好きで,普通のレストランでコーヒーと言えば1種類であり,砂糖とミルク が我々には信じられないほどたっぷり入ったとんでもないものが出てきます.
 この辺の話は,荘司和子さんという勇敢かつ健気な往年のお嬢さんが書かれた 「マイペンライ」(筑摩書房,1990年)と言う本に紹介されている通りです.しか し,この本が書かれてからのバンコックの国際化には著しいものがあり,一流ホテル や外国人が多く訪れる一流レストランでは(わざわざ一流と言うところがまだタイら しいのですが),メニューのコーヒーの欄に10種類程の品名が書かれているとこ ろも多くなりました.2件ほど私の経験を紹介します.
(右写真はタイのペンジェロン焼き)

 一般にコーヒースタンド,喫茶店のようなものは少ないのですが,日本人が多く住 み私も三回の滞在を通じて下宿したSukhumvit通りにDelifranceという, バンコックらしからぬ,小奇麗 でしゃれた雰囲気の店があります.ここのレギュラーコーヒーは40B(平成12年9月現在1B(バーツ)は2円80銭程度)、大しておいしくはないが,機内食やアメリカのスタンドのコーヒーよりは余程ましと言うところでしょうか,ガーリックパン25B,これはなかなか結構でした.

 伊勢丹と同じビルで、大きな免税店があるので日本人観光客が良く行くワールドトレードセンターの5階の吹き抜けのテラスに気安く休める喫茶店があり、街を散歩して疲れたときに時々立ち寄りました。ここのサンドウィッチはタイの食べ物に疲れた日本人にはおいしく感じられる穏やかな味ですが、そのときに何気なく選んで飲んだカプツイ−ノ(60B)はたいへん香りよく美味しく感じられました。

 この他にはインスタントコーヒー以上のものを味わったことはありません。要するに,タイの気候土地柄はあまりコーヒーを飲みたくなる所ではないようにおもわれます。そこで、コーヒーが好きな方がタイを訪問されたら,飲んで楽しむことはあきらめて,ベンジェロン焼きと呼ばれる極彩色細密な模様の焼き物のコーヒーセットの方をお勧めしま す.自分のため,あるいはお土産に,いろいろな種類の中から選べて楽しめます.私も写真の様なカップを買ってきて自宅で使っています。

 最後に,この話をすると品位が下がるようであまりしたくないのですが,読者の方 が知らずに面白くない目にあわれると申し訳ないので矢張り書かないわけには行かな いでしょう.
 注文するときに「コー・ヒー」と言ってはならない!「コー・我笛〔ガフエ)」と言ってください。その理由は解説することもはばかられますが、タイ語で「コー」と言うのは「ください」を意味し「ヒー」は****を意味します。
暑いことが苦にならず、辛い食べ物が好きな人には、ぜひタイを訪問される事をお勧めします。
                                                              以上
(平成12年9月30日 長岡在 白樫正高 氏 寄稿。古い友人に感謝いたします。 衛藤 正徳)

2000.09.14

[1]コーヒーにも日本の四季があっていい。

◇日本には四季があります。四季によって好む味が異なります。秋になるとコーヒーと紅茶が美味しくなります。正確に言えばより美味しいと感じるようになります。また夏よりも旨みのあるコーヒーと紅茶が飲みたくなります。人間の感覚は面白い、そして鋭い。この感覚を大切にしたいと考えました。

◇料理は旬の味を大切にしています。四季に応じた美味しい料理があります。ところがコーヒー・紅茶にはほとんど見あたりません。春夏秋冬に旬のコーヒーがあつていい。日本の四季に応じた美味しいコーヒー・紅茶があっていい。そんなところから、四季のブレンドが生まれました。